第53話 帰郷と懐かしい味
短い夏が終わりを告げ、ノルデンの街に心地よい秋風が吹き抜けていた。
領地の境界を示す街道を抜け、街の入り口に立った瞬間。青年の足が自然と止まった。
「おいおい……なんだこりゃ……!」
青年の名はジーク。数年前までこのノルデンで暮らしていた若者だ。
昔から不思議と剣だけは得意だった。誰かに習ったわけでもないのに、剣を握れば相手との間合いや踏み込む瞬間、刃を振るう角度が感覚で分かった。まるでずっと昔から身体が覚えていたみたいに。
だからこそ——。
『こんな貧乏臭くて先の見えない街、出て行ってやる!』
そう息巻いて故郷を飛び出した。剣一本あれば外でも食っていけると思ったし、実際その通りになった。冒険者として魔獣を狩り、商人の護衛をし、手元の金貨もそれなりに貯まった。
そろそろ一度くらい実家に顔を出しておくか。そんな軽い気持ちで帰ってきたのだが——。
「おい、ここ……本当にノルデンかよ?」
かつてのノルデンといえば、欠けた石畳に泥水が溜まり、人通りもまばらな廃墟同然の街だった。
ところが今、目の前に広がっているのは綺麗に補修された石畳と、活気に満ちた市場の喧騒だ。すれ違う荷車には商品が山と積まれ、見覚えのない店が立ち並び、何より人が多い。
「たった数年で何があったんだよ……!」
狐につままれた気分で市場へ入っていくと、威勢のいい声が飛び込んできた。
「いらっしゃい! 焼き立てのあんパンだよ!」
「ルージュクッキーも焼き上がったよー!」
「……あん、パン?」
ジークの足が止まった。
知らない言葉のはずだった。ノルデンにも、この数年渡り歩いたどの街にも、そんな食べ物はなかった。
なのに、その響きだけが記憶のどこかを掠めた。
「兄ちゃん、一個どうだい? 焼き立てだよ」
「……一個くれ」
衝動的に銅貨を渡し、温かいパンを受け取る。
「これが……あんパン?」
割ってみると、ふわりと湯気が立ち、赤みがかった餡が顔を覗かせた。
「豆を……パンに入れてんのか?」
甘い香りが鼻をくすぐる。一口かじった。
「——っ」
柔らかな生地と、舌の上に広がる豆の甘さ。
美味い。だがそれ以上に、得体の知れない感覚が身体の芯から押し寄せてきた。
「……懐かしい?」
自分で呟いて驚いた。
初めて食べたはずだ。間違いなく初めてなのに、もう一口かじると、手が、口が、その味を知っていると言っている。
(俺……これを食ったことがあるのか……?)
記憶を手繰り寄せようとした瞬間、脳裏に一閃、何かがちらついた。
——白い粉。甘い香り。何かを捏ねる手。
自分の手だ。いや、もっと擦り切れて皺の刻まれた、職人の手。熱気。焼き上がる甘い匂い。そして、誰かの笑い声。
「…………!」
瞬きをすると、幻影は消え、市場の喧騒が戻ってきた。
「なんだ……今の……」
手の中には食べかけのパン。ジークはそれをじっと見つめた。
「なあ」
「はいよ?」
「これ、誰が考えたんだ?」
「あんパンかい? 元を考えたのは領主のカイル様だよ」
「……領主が?」
王都から追いやられてきた十代の若造。噂ではそう聞いていた。
その男が街をここまで変え、そして——なぜか自分が「知っている」食べ物を持ち込んだ。
「……何者だよ、そいつ」
◇
ジークは換金所で持ち帰った魔石を売った。
提示された金額に、ジークは目を見張る。以前のノルデンなら、冒険者の獲物など何だかんだ理由をつけて買い叩かれたものだ。それが寸分違わず相場通りの金額だった。
そのまま実家へ向かう。
出迎えた両親に散々怒られ、泣きつかれ、久しぶりに家族で食卓を囲んだ。
食卓に並んでいたのは、昔のような固いパンと薄い干し肉のスープではなく、柔らかなパンと温かなスープ、新鮮な野菜だった。
「父さん。街がめちゃくちゃ変わってて驚いたんだけどよ。新しい領主のおかげなのか?」
「……ああ」
父親はスープを一口すすり、目を細めた。
「最初は王都からの坊ちゃんが何を始める気だって疑っとった。どうせ俺たちから絞れるだけ絞って、冬になれば見捨てるんだろうってな。……だが、違った。畑のやり方を見直して、ルージュ豆って作物を広めて、作ったものを適正な値段で買い取る仕組みを作ってくれた。今年はな、冬を越せるかどうか怯えなくていいんだ」
父親のそんな顔を見るのは何年ぶりだろう。
貧しくて、どうしようもなくて、未来がないから自分はこの街を捨てた。なのに——。
「カイル・フォン・ヴァルハイト……」
ジークはその名前を呟き、胸の中の疑問を深めていった。
◇
翌日。
実家に顔を出す目的は果たしたが、ジークは外へ出る気になれなかった。一年前に捨てた故郷が、外のどの街よりも面白そうに見えたからだ。
「だったら、こっちで仕事探すか」
腕の立つ護衛や魔獣討伐の仕事を探そうと街を歩き回った。
だが——。
商店を回り、商人組合へ行き、東門へ走り、酒場を回った。
日が西に傾く頃、ジークは長くなった自分の影を見つめ、頭をガシガシと掻きむしった。
「……ふざけんなよ! 仕事を探すだけで一日終わるじゃねえか!!」
街は大きくなり、人手を求めている奴は確実にどこかにいる。
なのに、パン工房ならパン工房、農家なら農家、護衛なら商人組合、討伐なら酒場と、自分の足で一軒ずつ回って確認するしかない。
「仕事はある。働きたい奴もいる。なのに互いがどこにいるか分からねえ。街はデカくなったのに、そこは昔のまんまかよ!」
ジークは懐から小さな紙包みを取り出した。今朝、市場でまた買ってしまったあんパンだ。
一口かじる。やはり美味い。そして、やはり懐かしい。
頭をよぎる、あの皺だらけの職人の手。
このパンをこの世界に持ち込んだのは、あの若い領主だ。
「仕事探しくらい、もうちょっとどうにかしろよ……!」
ジークはあんパンを口に放り込み、夕暮れの街の小高い丘の上に立つ領主館を睨みつけた。
「よし。どうせなら、この街をこんな姿に変えた張本人に直接文句言ってやる」
それに、聞きたいことが出来た。
「……あんパン、か。なぜあいつがこれを知ってる?」
ジークは不敵に笑い、領主館へ向かって歩き出した。
「いったい何者なんだ、お前」
この時のジークはまだ知らない。
その疑問が、カイルだけでなく——自分自身が何者なのかという問いにまで繋がっていることを。




