番外編 領主様とギヤのお散歩
久しぶりに、執務の書類がすべて片付いた午後のことだった。
空はどこまでも澄み渡り、心地よい秋風が領主館の窓を吹き抜けていく。
「カイル様、たまには少し外の空気を吸いに行かれませんか?」
「いいね、行こうか。気分転換に」
リーザの提案に、カイルは二つ返事で頷いた。
お供も連れず、護衛もつかず。二人は久しぶりに二人きりで、ノルデン郊外の牧草地へと足を延ばした。
広大な草原には、のんびりと草を食む数十頭のギヤの群れ。
カイルは柵に手をかけ、感心したようにその姿を眺めた。
(やっぱり不思議な生き物だな……)
体つきやどっしりとした佇まいは、前世で知る「牛」そのものだ。けれど、頭部には立派な二本の角があり、丸みを帯びた顔立ちや顎下の毛並みにはどこか「山羊」を思わせる愛らしさがある。
「こうして近くで見ると、ますます牛と山羊を合わせたみたいだな」
「ウシ……? ヤギ……?」
「あ……いや、なんでもない」
「???」
首をかしげるリーザに苦笑いを返しつつ、カイルはふと一頭のギヤと目が合った。
つぶらな瞳でこちらを見つめてくるその個体に、ゆっくりと手を差し伸べてみる。
「おいで。怖くないよ」
『メェェ……』
「そうそう。いい子だ——」
べろぉぉぉん。
「…………」
カイルの顎の下から額に向かって、極上のザラザラ感を伴った温かい舌が一気に突き抜けた。
髪の毛は見事に逆立ち、顔の右半分の皮脂と汗が完全に削ぎ落とされる。
「…………カイル様」
「…………」
「ふっ……」
「リーザ?」
「ふふっ……あははははっ!」
リーザが、お腹を押さえて可憐に声を上げて笑い出した。
「笑わないでくれよ!」
「す、すみません……あまりに豪快に舐められていらしたので……ふふっ」
「……この子、人懐っこすぎるだろ」
情けなく頬を膨らませるカイルに、リーザは懐から清潔な刺繍入りのハンカチを取り出した。
「もう。じっとしてください」
「自分で拭けるよ」
「いいんです。今日は私がします」
リーザの手が伸ばされ、カイルは素直に目を閉じた。
柔らかいコットンの感触と、かすかに漂うリーザの甘い香りが顔を包み込む。頬を拭う彼女の指先が、ほんの少し震えているのが伝わってきた。
「……はい、綺麗になりましたよ」
「ありがとう」
カイルがゆっくりと目を開ける。
——すぐ目の前に、リーザの顔があった。
至近距離で重なる視線。
夕日に照らされた彼女の銀髪と、少し朱を帯びた白い頬。息遣いまで届きそうな距離に、急にカイルの胸がドクンと跳ね上がった。
「…………」
「…………」
二人とも言葉を失い、固まってしまう。互いの顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
カイルが緊張のあまり生唾を飲み込んだ、その時。
べろっ。
「きゃっ!?」
今度はリーザの背後から伸びてきた別のギヤの舌が、彼女のうなじから頬を豪快に舐め上げた。
「あはははは!」
「カ、カイル様! 笑いましたね!?」
「だって、リーザまで完璧に舐められてるんだもん!」
「もう! この子たち、馴れ馴れしすぎます!」
「うわ、追っかけてきた! 逃げるよ!」
「あ、待ってくださいカイル様!」
二人は手を繋ぎ、夕暮れの牧草地を子供のように笑いながら駆け抜けた。
◇
ひとしきり走って息を切らした帰り道。
黄金色に染まる牧草地を見渡しながら、カイルはふと呟いた。
「……ずいぶん増えたね」
「ギヤですか?」
「うん。僕が来た頃より、子ギヤも増えてる」
「乳もたくさん採れるようになりましたよ。パン工房でも毎朝届けてもらっています」
「…………乳、か」
カイルがふと足を止めた。
頭の中で、前世の知識と今のノルデンの食情勢が、カチリと噛み合っていく。
(ミルクの生産が増えているなら……加工すれば、もっと日持ちして、価値の高いものが作れるんじゃないか? 例えば……)
「カイル様?」
「いや。ちょっと思いついただけ」
「またですか?」
リーザは呆れたように、けれど愛おしそうに目を細めて笑った。
「今日はお仕事禁止です。せっかく二人で来たんですから」
「……はい」
「返事だけは素直ですね」




