番外編 セムラの日誌 ②
(前略)
王都から派遣された監査官を見送り、緊張の糸が切れるかと思いきや、我がノルデン領主館の日常はあっけなく元通りとなった。
無事に監査を終え、領政における重大な局面を乗り越えたというのに、カイル様は今日も今日とて、朝早くから作業着姿で嬉々として畑へと向かわれた。
隙を見せれば一筋縄ではいかぬ知略をめぐらせる、あの鋭い眼光。監査官たちを完璧に手玉に取っていた人物と同一人物とは到底思えぬ無邪気さである。
まったく、少しは領主らしく自室で優雅に茶でも召し上がれば良いものを……と溜息をつきつつも、その変わらぬ姿にどこか安堵している自分もいる。
夕刻になり、カイル様が泥だらけの靴で館へと戻ってこられた。
その手には、泥のついた麻袋が大事そうに抱えられている。
「セムラ! 見てくれ、これ!」
「……カイル様。まずは泥を落としてからお入りください。……して、それは?」
袋の中から取り出されたのは、鮮やかな緑色をした鮮度の良い豆——ヴェルデ豆であった。
ノルデンでは柔らかく煮てスープの具材にするのが定番の緑豆だ。去年は天候に恵まれず不作気味であったが、カイル様が根気強く主導してこられた土壌改善の成果が出たのだろう。今年は実りも良く、見事な豊作となりそうだ。
「土の状態がかなり良くなっていてね。今年はこのヴェルデ豆がたくさん獲れそうなんだ! だから——」
カイル様は満面の笑みを浮かべ、少年のように目を輝かせてこう宣わった。
「これを新しい『あん』にして、あんパンを作ろうと思う!」
「……は?」
「よし、さっそく厨房に行こう!」
張り切って厨房へと疾走していく後ろ姿を見送りながら、私は深く眉間を揉んだ。
……ふふふ。相変わらずパンのことになると目が無いお方だ。まあ、楽しそうにされているのは何よりなのだが。
◇
小一時間後。厨房には甘い豆の香りと、どこか青臭い独特の湯気が立ち込めていた。
従来のこしあんと同じ工程で丁寧に煮詰め、漉し、砂糖を加えて練り上げたという『ヴェルデ豆の緑あん』。
焼き上がったパンの生地にそれをたっぷり詰めた試作品が、目の前の皿に鎮座している。
「出来たよ! さあ、セムラも食べてみてくれ!」
カイル様はご自身で焼きたての一口を頬張り、「うん、豆の風味が強いな!」と満足そうに頷いている。
そして、期待に満ちた眼差しで私に皿を差し出してきた。
「う……む……」
断るわけにもいかず、私は覚悟を決めてその『ヴェルデあんパン』を手に取り、一口噛み締めた。
……ふむ。
しっとりとした生地の甘みの後に押し寄せるのは、主張の激しいヴェルデ豆特有の青々しい風味と、それを強引に押し込めようとする砂糖の甘み。お世辞にも「調和している」とは言い難い、なんとも微妙な味わいであった。
「……どうかな?」
カイル様が身を乗り出し、黄金色の瞳をキラキラと輝かせて感想を待っている。
領主様の顔を立てるべきか、一瞬の葛藤が脳裏をよぎったが……私は静かにパンを皿に戻し、至極真面目な顔で告げた。
「これでしたら……普通にスープにした方が、美味しいかと……」
「そっか……」
言った瞬間、カイル様の耳と尾が見えるかのように、ガックリと肩が落ちた。先ほどまでの輝きが嘘のように一気に落ち込むお姿は、少々毒気を抜かれるものがある。
「うーん、やっぱり青臭さが勝ちすぎちゃうかあ。……じゃあ、また別の方法を考えるかあ」
落ち込みつつも、すぐに気持ちを切り替えて次の改良案をこぼし始めるカイル様。
……やれやれ。監査が終わろうと、このお方の『あんパン道』への情熱だけは、当分収まりそうにない。




