第6話 信用の最初の収穫
「おいおい、嘘だろ……」
「貴族様が自ら泥まみれになって鍬を振るうなんて……」
北側の農地で、領民たちが呆然と呟くのも無理はなかった。
僕は上着を脱ぎ捨て、泥にまみれながらガツガツと硬い土を耕していたのだ。
「ふぅ……なに、王都の屋敷の裏でも毎日やっていたからね。慣れたものさ」
手際よく土を返していく僕を見て、隣の農民は目を丸くしている。
口先だけの貴族だと思っていた新領主が、自分たちと同じ泥を被って鍬を振るっているのだ。驚かないはずがない。
(前世でも、机の上の帳簿だけを眺めていては分からん現場の苦労が山ほどあった)
土の湿り気と冷たさを掌で確かめながら、汗を拭う。
ノルデンへ来る前、僕が見ていたのは収穫量や人口、税収といった「数字」ばかりだった。
けれど、実際に鍬を振るってみれば痛感する。
この石ころ混じりの硬い土地を、人の手だけで何町歩も耕す。それがどれほど無謀で、途方もない労力を強いるものか。
「……ん?」
ふと、農地の隅に置かれた巨大な鉄の塊が目に入った。
赤錆にまみれ、長いあいだ雨風に晒されていたらしい古びた大型機械。
「……これが、本物の大型魔動農機具か……!」
思わず声が漏れた。
小型の魔動農具なら王都の屋敷でも使ったことがある。だが、これほど巨大なものは本でしか見たことがなかった。
一台で何人分もの働きをし、硬い土地を深く掘り返すことのできる大型農機。
僕は錆びついた車体を見上げた。
(本当に……これが動かせれば)
この広大な荒れ地を、すべて人力で耕す必要がなくなる。
「ですが領主様、そいつは動かせる代物じゃありませんよ」
近くにいた農民が、あきらめ顔で首を振った。
「前領主様が、ずいぶん無理をして王都から取り寄せたんです。『これがあればノルデンの農業を立て直せる』ってな」
「……前領主が?」
「ええ。だが、動かすための魔石を買う金が底をついちまって。前領主様が亡くなってからは、ずっとあのまま野ざらしです」
農民は冷めた目で錆びついた農機を見上げ、小さく吐息を漏らした。
「しかも、それなりに質の高い魔石じゃなきゃ、一歩も動きやしません」
「…………」
僕は黙って農機の車体へ手を触れた。
ひんやりとした鉄の感触が、掌を通じて伝わってくる。
(……そうか)
前領主も、荒れた畑をもう一度蘇らせたかった。
だから、破綻寸前の財政の中で、批判を押し切ってこの機械を買ったのだ。
いつかこの鉄の塊が豪快に地表を削り、緑を取り戻す光景を、何度も夢見ながら。
けれど——その願いを果たす前に、倒れた。
赤錆に覆われた機械が、ただの鉄クズには見えなくなった。
これは、前領主がノルデンに残していった未完の遺産だ。
この土地を諦めきれなかった人間の、執念の跡。
道具も、機具も、人も揃っていた。
ただ一つ——動かすための「熱」だけが足りなかったのだ。
(なら——最後のピースは、僕が埋めよう)
僕はポケットへ手を突っ込んだ。
「なら、あるだろう?」
「……へ?」
取り出した魔石が、どんよりとした曇天の下で眩しく光を弾いた。
農民の目が、丸く見開かれる。
「質の高い魔石なら——ここにある」
前領主が命を削って残した機械。
僕が毎日、血道を上げて鍛え上げた魔石。
その二つが今、ここで揃った。動かさない理由など、どこにもない。
「こ、こんな純度の高い魔石を……!?」
「さて」
僕は農機の投入口を開いた。
「せっかく前領主が遺してくれたんだ。途切れた続きをやろうじゃないか」
カチリ、と魔石を嵌め込む。
次の瞬間——。
ガガガガガガガガガガ……ッ!!
「うわっ!?」
腹に響く凄まじい重低音とともに、赤錆びた車体が眩い魔力の光を放ち始めた。
けたたましい金属音を上げ、車体が激しく跳ね上がる。
「う、うわあああああ!?」
「カイル様! 魔石の純度が高すぎるんだーっ!?」
「出力が上がりすぎてます! 暴走するぞーっ! 逃げろーッ!」
「……え?」
次の瞬間、作業車は「バリバリバリ!」と爆音を撒き散らし、猛スピードで前進を開始した。
「うわあああああ!?」
操縦席にしがみついた僕も、たまらず叫ぶ。
必死で制御レバーを引き絞る目の前で、カチカチに干からびていた大地が、まるで豆腐のように深々と掘り返されていく。
「お、おお……! すごいパワーだが、速すぎる……っ!」
「感心してないで止めてくださいーーっ!」
僕と農民たちが死に物狂いで取り付き、どうにか出力を抑え込む。
ようやく暴れ馬のような農機が沈黙した頃には、全員が泥だらけで地べたにへたり込んでいた。
「……し、死ぬかと思った……」
「すまない。少々、品質が良すぎたようだ」
「少々!?」
怒号混じりの悲鳴が飛んでくる。
だが——。
「……あれ?」
一人の農民が、掠れた声を漏らした。
視線の先、つい先ほどまでひび割れていた大地に、深々と黒い土が返された見事な畝が、どこまでも真っ直ぐに伸びていた。
「……これを、手作業でやったら……」
「何週間かかっても終わらねえぞ……」
誰かがポツリと呟いた。
さっきまで引きつっていた領民たちの顔から、固さが消えていく。
僕も、荒々しく掘り返された大地を見つめた。
(……動いた)
前領主が残した機械が。
何年も止まっていたノルデンの時間が、ガタリと音を立てて前へ動いた気がした。
「……ふぅ」
僕は汗を拭い、泥だらけの顔で笑った。
「これなら、水路の掘削も一気に進められるぞ」
「領主様、まず出力を下げてください!」
「……善処するよ」
「絶対ですよ!?」
◇
そして、数ヶ月後——。
かつて死んでいた茶色い大地は、見渡す限り鮮やかな緑の葉で覆われていた。
「土が……」
一人の農夫が、吸い寄せられるようにその場に膝をついた。
両手で土を掬い上げる。
以前のような、固く乾いた灰色の土ではない。
しっとりと湿り気を帯びた黒い土が、指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていく。
「土が……生き返ってる……!」
その声は、かすかに震えていた。
魔石を元手に調達した質の良い肥料。
前領主の残した大型農機を使って引き直した水路。
そして、痩せた土地でも力強く根を張るルージュ豆。
もちろん、魔法のように一朝一夕でうまくいったわけではない。
水路を通しても一部の畑では芽が枯れた。
水が溜まる場所があれば、泥まみれになりながら排水路を掘り直した。
育ちの悪い場所があれば、農民たちと地べたに這いつくばって土の臭いを嗅ぎ、原因を探した。
失敗するたびに、泥を拭ってやり直した。
ひとつ問題を潰せば、また次の問題が立ち塞がる。
それでも——誰も立ち止まらなかった。
「カイル様! 豊作です!」
パンパンに実った莢をつけたルージュ豆の畑を前に、歓声が上がる。
……けれど、その歓声の端々には、まだ拭いきれない不安が混じっていた。
山のように積み上がった赤い豆を見つめながら、農民たちが顔を見合わせる。
「ですが領主様。このルージュ豆ってのは……この国じゃ『家畜の餌』でしょう?」
「収穫できたのはありがてえが、人間が食える代物じゃあ……」
「いや」
僕は笑った。
「ちゃんと美味しく食べる方法があるのさ」
狐につままれたような顔をする領民たちの前へ、用意させておいた大きな鉄鍋を運ばせる。
採れたてのルージュ豆を投げ込み、じっくりと火にかける。
豆が柔らかく崩れ始めたところで、わずかに採れた根菜類と貴重な塩を加える。
やがて、湯気とともに、香ばしくどこか甘く優しい香りが広場いっぱいに漂い始めた。
「な、なんだこの匂い……」
「豆を煮ただけだぞ? なんでこんな美味そうなんだ……」
「よし、完成だ。冷めないうちに食べておくれ」
そう声をかけたが、すぐに手を伸ばす者は一人もいなかった。
無理もない。つい数ヶ月前まで「家畜の餌」だと思い込んでいた代物なのだから。
互いに顔を見合わせ、躊躇する大人たち。
その人ごみを割って、一人の男が前へ出た。
「……俺が食う」
ベルクだ。
数ヶ月前、飢えと怒りで僕の胸ぐらを掴んできた、あの男だった。
ベルクは差し出された椀を受け取った。
だが、すぐには口をつけない。
立ち上る湯気の向こうで、赤いスープを苦々しい顔で睨みつけている。
「……本当に、食えるんだろうな」
「うん」
「…………」
「無理に信じなくてもいいよ」
僕が静かに返すと、ベルクはくすんだ瞳で僕を睨み返した。
「……今さら、それを言うな」
意を決したように、椀を傾ける。
「…………」
一口、二口。
誰も口を開かない。静まり返った広場で、ベルクは黙ったまま三口目を飲み込んだ。
やがて。
「……うめえ」
ぽつりと、掠れた声が落ちた。
「……うめえよ、ちくしょう……」
椀を握りしめる大きな手が、ガタガタと震えていた。
「こんなもん……家畜の餌だと思ってたのに……っ」
ぽたり。スープの中へ、大きな涙が一粒落ちて消えた。
「これなら……母さんにも、ガキどもにも食わせてやれる……」
ベルクは汚れた腕で乱暴に目元をぬぐった。
「領主様」
「うん?」
「……もう一杯、もらっていいか」
僕は一瞬、言葉を詰まらせた。
それから、深く頷いた。
「もちろん。いくらでも」
「……うめえ」
二杯目をすすりながら、ベルクは何度も噛みしめるように呟いた。
それを見ていた周囲の空気が、破裂するように動いた。
「……ベルクが食って平気なら、俺も……!」
「わ、私にも一杯くれ!」
一人、また一人。
鍋の前へ、弾かれたように人が押し寄せ始める。
やがて広場のあちこちから、溢れ出すように声が上がった。
「美味い……!」
「身体が……あったかいぞ……!」
「これ、本当にあのルージュ豆なのか!?」
すすり泣く声。
子供を抱きしめて笑う母親。
湯気と熱気の中で、ずっと失われていた「笑顔」が次々と灯っていく。
僕は、何も言えずにその光景を見つめていた。
(……ああ)
胸の奥が、熱く焼けるように痛んだ。
(……よかった)
溢れ出たのは、たったそれだけの思いだった。
大豊作だったからではない。
自分の知識が正しかったと証明できたからでもない。
数ヶ月前に『俺たちはな、一回の失敗で家族が死ぬんだよ!』そう叫んで僕に掴みかかってきた男が、今は二杯目のスープを夢中ですすっている。
そして——明日、家族にこれを食べさせる話をしている。
(小さな……本当に小さな一歩だ)
ノルデンは、依然として貧しい。
閉ざされたままの店もあれば、寒さに震える家もある。
王都の豪奢な貴族たちが見れば、たった一種類の雑穀が採れた程度で何を大騒ぎしているのかと、鼻で笑うかもしれない。
だが、大成功なんて言わなくていい。
今日食べるものさえ無かった人々が、明日の食事を楽しみにできるようになった。
どん底の絶望の中に、たしかに「明日」という芽が吹いたのだ。
(この瞬間に生まれた小さな希望は——もう、誰にも打ち消せやしない)
数字や成果なんかじゃない。
人が明日を生きようと思えること。
僕は、それが見たかったのだ。
「よかったです……本当に……っ」
隣でリーザが、必死に涙を堪えながら目元を拭っていた。
僕はそんな彼女を見て、ふっと肩の力を抜いた。
「おいおいリーザ。泣くのはまだ早すぎるよ」
「え……?」
涙目のリーザが僕を見上げる。
「これからもっと美味いものを作る。給料だって、ちゃんと稼げるようにしてみせる」
僕はもう一度、湯気が立ち上る広場を見渡した。
まだ貧しい。僕たちの仕事は、まだ始まったばかりだ。けれど——。
「これは、ほんの始まりさ」
「もう少しカイルたちを見てみようかな」と思っていただけましたら、ぜひブックマークを(ブラウザのじゃないよ)
そして、 「カイル、早くノルデンをなんとかしてくれ!」 と思っていただけましたら、☆☆☆☆☆から応援していただけると嬉しいです!
皆さまの応援が、執筆の大きな力になります。 ノルデン復興は、ここからです!




