番外編 寮の灯りと、明日の約束
ある女の子のお話
「はぁ~~っ……いいお風呂……」
ちゃぷん。肩までお湯に浸かると、身体の奥からふっと力が抜けた。
ルージュ豆の選別をして、焼き上がったパンを運んで、午後からはメリア先輩に教わりながら袋詰め。
腰も痛いし、指先も少しじんじんしている。
なのに——。
「……ふふ」
なんだか、笑えてしまう。
仕事を終えて、共同の温かいお風呂に入って、あとは自分の部屋で寝るだけ。
以前の私——エマには、どれひとつとして当たり前じゃなかった。
◇
一年前まで、夜の店で働いていた。
知らない男の機嫌を取り、嘘の笑いを貼り付け、客の家に泊めてもらう日々。思い出すだけで吐き気がする。……嫌で嫌で仕方なかった。
でも、あの頃のノルデンではそうでもしないと生きていけなかった。
何よりつらかったのは、帰る家がなかったことだ。
家を借りようとしたことは、ある。けれど不動産を扱う商人には、冷ややかな目で追い払われた。
「保証人は?」
「……いません」
「ご家族は?」
「……いません」
「なら、無理だね。家賃を払える保証がない。だいたい、夜の店で働いているような娘に貸せる部屋なんてないよ」
家がないから、まっとうな仕事に移れない。
まっとうな仕事がないから、信用も保証人もなくて家を借りられない。
完全に、行き止まりの輪の中に閉じ込められていた。
泊めてくれる客がいない日は、誰もいない空き家に忍び込んだ。
冬の夜、隙間風が吹き込む暗がりで膝を抱えながら、明日はどこで寝ればいいんだろうと、そればかり考えていた。
あの場所から逃げ出したくて堪らなかった、ある日のこと。
路地の壁に、ふと貼られた紙を見つけた。
『パン工房 働き手募集(従業員寮あり)』
——従業員寮あり。
その文字だけを、何度も、何度も指でなぞった。
普通の賃貸なら保証人を要求されて終わりだ。でも、ここなら。働いてパンを焼く手伝いさえできれば、眠る場所までついてくる。
その五文字は、私にとって文字通りの脱出口だった。
採用され、初めて自分の部屋へ案内された夜のことは、今でも忘れられない。
あてがわれた小さな部屋でベッドに入ったものの、怖くて朝まで眠れなかった。
(本当に、ここにいていいのかな)
夜中に叩き出されるんじゃないか。朝になったら追い払われるんじゃないか。
けれど翌朝、目を覚ましても、私はちゃんと柔らかい布団の中にいた。
「……追い出されてない」
ぽつりと呟いた瞬間、涙が溢れて止まらなかった。
「夢じゃ……なかっ……た!」
もうあの店に戻らなくていい。今日も、明日も、ここにいていいのだと。
◇
それから、一年。
パンの焼き方も知らなかった私が、今ではルージュ豆の選別の責任者を任されている。
身体が弱くて短時間だけ働く人。言葉は少ないけれど、誰よりも重い袋を運ぶニルスさん。接客で売り場を明るくするメリア先輩。
できることをそれぞれが持ち寄って、笑い合いながら働いている。
「ふぅ……」
お湯から上がり、身体を拭いて部屋へ戻る。
ドアを閉め、鍵を回す。
カチャリ。
「……ただいま」
誰もいない部屋に、小さく声をかける。
鍵のかかる音。それが、今の私には一番優しい音だった。
この鍵は、単なる防犯の金具じゃない。社会的な信用すら持てなかった私が、自分の足で立ち、自分の名前で持てた「居場所」の証だ。
もう、誰かの顔色を伺って部屋を乞う必要はない。
雨が降ろうと雪が降ろうと、ここには屋根がある。
「あ、そういえば……メリア先輩の部屋、もう空いたんだっけ」
ニルスさんとご結婚されて、ふたりは寮の中にある少し広めの「2人用の部屋」へ移った。
この前、二人で並んで新しい部屋へ荷物を運んでいるところを見かけた。メリア先輩が楽しそうに指示を出して、ニルスさんが大きな荷物を軽々と抱えて後ろをついていく。
二人が夫婦になって、新しい生活を整えていく姿が、なんだか眩しかった。
いつか二人は「自分たちの家」を持って出ていくのかもしれない。
昔の私にとって「家」とは、貸してもらえないもの、泊めてもらうもの、あるいは忍び込むものだった。
けれど、今は分かる。
(……私にも、いつか)
明日の寝床を心配していた昔の私。
今の私は、いつか自分で選んで住む、未来の部屋のことを考えている。
「……おやすみなさい」
灯りを消す。
暗闇の中に身を沈めても、もう何一つ怖くなかった。
明日もまた、私はここへ帰ってくるのだから。
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