番外編 氷菓と、夏のくちづけ
北国のノルデンにも、短い夏がやってきていた。
冷涼地ゆえに王都のような酷暑とまではいかないが、日中はそれなりに陽射しが強く、汗ばむ陽気が続いている。
「夏のうちに畑の生育状況を見て、水路の泥上げの計画も立てて、それから旧市街の建物の採寸を——」
案の定、執務室で腕捲りをしながら予定を詰め込もうとしていたカイルの前に、二人の人物が立ち塞がった。
「カイル様。本日はお休みにございます」
「……え?」
セムラが静かに、しかし退路を断つように告げ、隣のリーザがにっこりと微笑む。
「お休みですわ」
「いや、でも畑が——」
「お・や・す・み・です」
「……はい」
リーザの威圧感に押し切られ、カイルはペンを置くしかなかった。
かくして強制的に休みを取らされたカイルは、せっかくだからとリーザと共に街へと繰り出すことになった。
一歩外に出れば、かつて静まり返っていた街道は驚くほどの活気で満ちていた。
香ばしい匂いに誘われて覗いたパン工房では、焼きたてのふかふかしたパンを買う客の行列ができている。市場にはノルデン産のフレッシュな野菜や果物が並び、街道を行く冒険者たちが「これ日持ちするし美味いんだよな」と日雇い仕事の合間にサンドクッキーを買い買い求めていた。
ふと視線を遣れば、きりっとした警備隊の制服に身を包んだローグが、凛とした表情で街を巡回している姿が見えた。
(……ああ。僕たちが作ってきたものは、ちゃんと形になってるんだ)
領主として帳簿の数字を眺めるのとは違う。
一人の住民として歩く街の風景は、カイルの胸にじんわりとした温かい満足感を満たしていった。
「カイル様、見てください! あそこで珍しいものが売られていますわ」
リーザが楽しそうに指さしたのは、山からの冷涼な湧水と、わずかな魔石の冷気を利用した水冷式の屋台だった。そこでは、削った氷に甘酸っぱいベリーの蜜をかけた、涼しげな『氷菓』が売られていた。
「へえ、こんなものまで作れるようになったのか。これ、原価率はどうなって——」
「カイル様」
「ん?」
「今日は帳簿のお話は禁止ですわ」
「ええっ!?」
リーザにぴしゃりと先手を打たれ、カイルは苦笑いするしかない。
二人は木陰のベンチに並んで座り、紙容器に入った氷菓を匙ですくい始めた。
「冷たっ……!」
「ふふっ。カイル様、そんなに急いで召し上がるからですわ」
「だって、ほっておくと溶けるだろ?」
「子どもみたいですわね」
クスクスと鈴を転がすように笑うリーザ。
ふと、カイルはその横顔に目を留めた。
今日は非番ということもあり、リーザはいつもより少し胸元の開いた涼しげな薄手のドレスを着ていた。美しい銀髪は高めの位置で小さくまとめられており、普段は見えない白くしなやかな首筋が露わになっている。
その白皙の肌に、陽光を浴びてほんのりと赤みが差していた。
氷菓を小さな口元へちょこんと運び、「ん……冷たくて、おいしいですわ」と目を細める。
(…………)
カイルの心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
(な、なんで僕……ただ氷食べてるの見てるだけで、こんなに緊張してるんだ……?)
自分が動揺していることなど露ほども気づいていない天然な婚約者は、自分の紙容器をカイルの方へと差し出してきた。
「カイル様、こちらの味も食べてみます?」
「え?」
「はい。あーん」
「…………っ!」
目の前に差し出された、小さな金属の匙。
「カイル様?」
「……そ、それ。君が使った匙だよね……?」
「? そうですけれど」
「…………いや、なんでもない!」
首を傾げるリーザに対し、カイルは顔から火が出そうになりながら、半ばヤケクソで匙の氷菓を口に含んだ。
冷たいはずなのに、体温が急上昇していくのを感じる。間接キスなんて、付き合いの長い二人のはずなのに、妙に意識してしまって頭がどうにかなりそうだった。
氷菓を食べ終わり、カイルが息を整えようとした、その時だった。
「ふう、美味しかった……ん?」
リーザの小さな唇の端に、鮮やかな赤紫色のベリーの蜜が、ほんの少しだけちょんと残っていた。
「リーザ、ちょっと」
「はい?」
「ここ、ついてる」
「え、どこですの?」
リーザが首をかしげ、指で探ろうとする。
カイルは指で拭ってやろうと手を伸ばし——だが、その途中でふと動きを止めた。
目の前にある、氷菓で少し湿り気帯びた、柔らかそうな薄桃色の唇。
じっと見つめ合う形になり、風が二人の間を通り抜ける。
カイルの視線に込められた意味にようやく気づいたのか、リーザの紫色の瞳が揺れ、みるみるうちに耳たぶまで真っ赤に染まっていった。
「……カイル、様……?」
「……ごめん。指より、こっちがいい」
そっと顔を近づけ、重ねる。
ちゅ。静かな接触。
カイルは唇の尖で、リーザの口元についていた蜜を静かに蜜をすくい取った。
ベリーの甘酸っぱい味が、口いっぱいに広がる。
顔を離すと、カイルもリーザも、リンゴのように真っ赤になっていた。
幼馴染としてずっと一緒にいて、夫婦になった二人だが、こういう突発的な触れ合いにはお互い呆れるほど初心だった。
「……っ、ご、ごめん! 急にこんな——」
カイルが慌てて頭を下げようとした、その時。
リーザが小さな手でカイルの袖口をキュッと引っ張った。
伏せられた長いまつ毛が、微かに震えている。
「……もう一度、ついているかもしれませんわ」
「え?」
「こちらにも……」
リーザは赤くなった顔を忍ばせるようにしながら、ぽんと自分の唇の反対側を指さした。
「……それ、絶対ついてないだろ」
「では……確認してくださいませ」
上目遣いに見つめてくる紫の瞳。
そこに宿る切ないほどのおねだりに、カイルの理性はあっけなく吹き飛んだ。
「……確認する」
今度はもう少し長く、深く、二人は唇を重ね合わせた。
夏の風が、二人の髪を優しく揺らしていた。
夕方。
陽が傾き始めた頃、二人は街の外れにある小高い丘の上に腰を下ろしていた。
「こうして……何もしないのも、久しぶりだな」
カイルが伸びをしながら呟くと、隣に座るリーザが優しく微笑んだ。
「何もしていないわけではありませんわ」
「?」
「休むのも、大切なお仕事です。カイル様が倒れてしまったら、この街のみんなが困ってしまいますもの」
「……ふふ、そうだな。ありがとう、リーザ」
カイルは感謝を込めてリーザの手を握った。リーザもその手にキュッと力を込め返してくれる。
カイルの視線は、丘の下に広がる畑へと向けられた。
まだ青々とした麦や豆の苗が、夏の風に揺れている。
「今年は……ちゃんと実ってくれるかな」
「きっと大丈夫ですわ」
「どうして?」
「だって、あれだけカイル様が泥だらけになって育てた畑ですもの」
「それ、何の根拠にもなってないよ」
「ふふっ」
夕負けの光を浴びながら、二人は心地よい笑い声を漏らした。
短い夏が、過ぎていく。
やがてこの青い畑が、どのような景色を見せてくれるのかを、この時の二人はまだ知らない。




