番外編 息子の背中
今回は、ある警備隊のお母さん視点の話。
いつからだっただろう。
私の身体がすっかり弱くなり、激しい咳が止まらなくなってしまったのは。
ベッドから起き上がることも難しくなった私を救うため、冒険者だった夫は必死に働いてくれた。
本来なら引き受けるべきではない危険な魔獣退治にまで手を出し、薬代を稼ごうと命を懸けていた。
怪我をして帰ってくる夫の手を握るたび、胸が潰れそうだった。
ただ無事でいてほしい。毎日、ただそれだけを祈っていた。
息子のローグもまた、そんな父親の背中を見て育った。
『俺、父さんみたいな強い冒険者になるんだ!』
庭で楽しそうに木の棒を振り回していたあの子の笑顔を、今でもはっきりと覚えている。
——ローグの、15歳の誕生日。
「今日は早く帰ってくるからな」と言って出かけた夫は、二度と帰ってこなかった。
届けられたのは、血に染まった形見の短剣だけ。
『薬代のために、無理をして……』
知らせを聞いた瞬間、私は膝から崩れ落ち、ただ泣き叫ぶことしかできなかった。
あの日を境に、ローグの顔から笑顔が消えた。
幼い下の子たちを養い、私の薬代を稼ぐため、あの子は幼い手に仕事を探し始めた。
やがてあの子は、いつからか暗い服を身にまとうようになり、夜の闇へと消えていくようになった。
夜遅く帰ってきたあの子が、黙って枕元に置いていく高価な薬。
暗がりの中、脱ぎ捨てられた服の袖に、かすかな血の跡がついているのを見てしまったことがある。
それがどんな仕事なのか、怖くて聞くことができなかった。聞けば、あの子がどこか遠くへ行ってしまう気がして。
私が病気でさえなければ。私さえいなければ。
罪悪感で息が詰まりそうになりながら、絞り出すような声で見送るしかできなかった。
「……気をつけてね、ローグ」
「……ああ」
あの子は一度も振り返らず、暗闇の中へと消えていった。
◇
ある日、ローグが枕元へやってきた。
まとまった金貨を机の上に置き、静かに言った。
「……少し、長く家を離れる。報酬の高い仕事なんだ」
その言葉が何を意味するのか、嫌な予感がして胸が騒いだ。
けれど、私は伸ばしかけた手を止めることしかできなかった。あの子を縛りつけているのは他ならぬ私なのだから。去っていくあの子の背中を、止めることができなかった。
◇
それから数週間が経った頃。
我が家の壊れた扉を叩いたのは王都の闇に生きる者ではなく、輝くような紋章を身につけた『ヴァルハイト家』の使者だった。
『ローグ殿のご家族ですね。カイル・ヴァルハイト様のご指示により、皆様を北方の領地ノルデンへお送りします。あの方の元で、安全に保護いたします』
何が起きたのか分からなかった。けれど幼い下の子が私にしがみつき、期待に目を輝かせて尋ねてきた。
「ねえ……お兄ちゃんに、会えるの……?」
長旅の末にたどり着いた北の領地、ノルデン。
馬車を降りた私たちの目に飛び込んできたのは、活気に満ちた美しい街と——制服に身を包んだ、ローグの姿だった。
「母さん……! みんな……!」
私達を見つけるなり、あの子はなりふり構わず駆け寄ってきた。
そして、折れそうなほど強く抱きしめてくれた。
あの子の腕の中で、私は泣いた。生きていてくれた。無事でいてくれた。ただそれだけで十分だった。
与えられた新しい家は、日当たりが良くて温かかった。
医者には王都の煤煙まじりの空気も身体に障っていたのだろうと言われた。
ここへ来てから、夜通し激しく咳き込む日は、確かに減っていた。
◇
ノルデンへ来て、変わったのは身体だけではなかった。
最初の頃、私は家の扉が叩かれるたびに身体を強張らせていた。王都にいた頃の癖だった。
ローグが夜の仕事をするようになってから、突然の訪問者が怖かった。
あの子が何か失敗したのではないか。誰かに恨まれたのではないか。あるいは——夫の時のように、もう帰ってこないという知らせなのではないか。
だから、引っ越して間もないある日。コンコン、と扉を叩く音がした時も思わず息を呑んだ。
「……はい」
恐る恐る開けた扉の向こうに立っていたのは、恰幅のいい中年の女性だった。
「こんにちは! お隣に住んでるミーナだよ。引っ越してきたばかりなんだって?」
「え……?」
「これ、うちで採れた野菜。形は悪いけど味は変わらないからさ。よかったら食べておくれ」
差し出された大きな籠には、土のついた芋や葉物、赤い豆がたっぷりと入っていた。
「こんなに……いただいてしまって、いいんですか?」
「いいの、いいの! 困った時はお互い様さ。あんた、まだ身体が本調子じゃないんだろ? 無理しちゃ駄目だよ」
そう言って女性は笑って帰っていった。
私はしばらく、閉じた扉の前で籠を抱えたまま立ち尽くしていた。
怖がる必要なんて、どこにもなかった。
ただの新しく越してきた隣人として、親切にしてくれただけなのだから。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
——おびえなくていい。
誰かが扉を叩いても。ローグが仕事へ出かけても。
血のついた服を見つけることもなければ、帰ってこないあの子を夜通し待ち続ける必要もない。それが、何より嬉しかった。
ミーナさんは時々うちへ顔を出してくれるようになった。
ある日の昼下がり、彼女がぽつりと言った。
「いやぁ、参ったよ。今日もルージュ豆が山ほど来てねぇ」
「ルージュ豆……ですか?」
「そう、この赤いやつさ。最近街で流行ってる『あんパン』の中身にする豆だよ。工房が大きくなって、仕分けする人手が全然足りないんだって」
「仕分け……」
「傷んだ豆を選ぶんだ。座ってできるし、難しい仕事じゃないよ」
私は自分の手を見つめた。
ノルデンへ来てから、体調は驚くほど良くなっていた。朝食を作り、洗濯物を干すくらいならもう苦にならない。
病に倒れてからずっと、私は誰かに支えられて生きてきた。
夫に。そして夫を失ってからは、ローグに。
薬代も、食べ物も、住む場所さえも。すべてあの子に背負わせてきた。
「……あの」
声が少し震えた。けれど、勇気を出して尋ねた。
「そのお仕事……私にも、できるでしょうか?」
ミーナさんが目を丸くする。
「長い時間は無理かもしれません。でも……少しならやってみたくて」
膝の上でぎゅっと手を握りしめた。
「自分のできることで、ほんの少しでも役に立ちたいんです。あの子にばかり背負わせたくなくて……それに、私自身のためにも」
ミーナさんは一瞬驚いた顔をしてから、ぱっと笑った。
「もちろんだよ!短時間でも構わないか、アタシからハンスさんに聞いてやるさ。無理のない範囲でやりなよ!」
「ありがとう、ございます……!」
頭を下げる目の奥が、熱くなった。
自分で働いて、僅かでも何かを得る。それがこれほど誇らしく、嬉しいことだなんて知らなかった。
数日後から、私は近所の人たちとテーブルを囲み、一粒ずつルージュ豆を選り分ける作業を始めた。
これが工房へ運ばれ、餡になり、美味しいパンになって街の人に届く。私の小さな仕事も、この街のどこかにつながっている。
そう思うだけで、日々の暮らしが愛おしかった。
◇
「……母さん、これ何だ?」
ある日の夜、机の上に置いた小さな巾着袋を見つけ、帰宅したローグが首をかしげた。
中には、私が初めて仕分けの仕事でもらった僅かな賃金が入っている。
「今日、ルージュ豆の仕分けのお手伝いをしたのよ。そのお給料」
「は……!? 働いたのか!? 何やってんだよ母さん! まだ身体が完全じゃないんだろ、無理すんなって!」
ローグが慌てて声を荒らげる。私を心配して、本気で怒ってくれているのが分かった。
私は首を横に振った。
「無理なんてしていないわ。一日ほんの少しだけ、座って豆を選ぶだけだもの」
「だけど……お金なら俺が稼いでくる! 母さんは何も心配しなくていいんだ!」
「ありがとう、ローグ」
私はあの子の手をそっと包み込んだ。
「でもね……楽しいのよ」
「え……?」
「陽のあたる場所で、みんなとお喋りをしながら働いて……この街の役に立っていると思えることが、私、とても嬉しいの。あなたに守ってもらうだけじゃなくて、私もこの街で暮らしているんだって思えるから」
ローグは目を見開いたまま、言葉を失っていた。
かつて夜の闇でしか生きられなかった息子が、ゆっくりと息を吐き出し、眉根の力を抜く。
「……そっか。……でも、絶対に無理はするなよ」
「ええ、約束するわ」
◇
「よし、今日も問題なさそうだな」
朝。陽光が差し込む食卓で、ローグがピシッと仕立てられた警備隊の制服に袖を通す。
今のあの子の仕事は、街の警備だ。
酔っ払いの喧嘩を仲裁したり、迷子を家に送り届けたり、ノルデンの平和と人々の笑顔を守る仕事。
かつて夜の闇に消えていっていたあの暗い顔は、もうどこにもない。あの子は今、自分の仕事にしっかりと胸を張っていた。
「いってらっしゃい、ローグ。無理はしないのよ」
玄関で見送る私に、あの子は少し照れくさそうに、けれど優しく目を細めて微笑んだ。
「……行ってきます、母さん」
戸口を出て、陽の光の中へと歩き出していく息子の背中を見送る。
その背中は、いつの間にこんなに大きくなったのだろう。
そして私は、ふと気づいた。
——ああ。
あの人と、同じだ。
かつて私が心から愛し、誇りに思っていた人と。
「……いってらっしゃい」
もう一度、小さく呟いた。
今度は、不思議と怖くなかった




