第37話 届かなかったはずの招待状
新緑の季節を迎えたノルデン。
領主館の窓からは、柔らかな日差しと芽吹いたばかりの緑がよく見えた。
僕たちは、ごく小さな式を挙げるつもりでいた。
この土地へ来てまだ一年足らず。領地運営が軌道に乗り始めたばかりの時期に、派手な式で浮かれていると思われたくはなかったし、何より身内だけで静かに祝えれば十分だと思っていたのだ。
「そういえば、リーザ」
執務室で羊皮紙と格闘していた僕は、ふと手を止めて向かい側を見た。
「君のご家族にも、招待状を出していいかな?」
「…………」
名簿を整理していたリーザの手が、ぴたりと止まった。ほんの一瞬だった。
「……お父様たち、ですか?」
「ああ。僕の父上と母上、それに兄上にも知らせを出したからね。だったら、君のご家族にもと思って」
リーザは少しだけ視線を落とし、小さく苦笑した。
「……きっと、お父様はお怒りですわ。何も相談せず、勝手に家を飛び出した娘ですもの」
「リーザ……」
「大丈夫ですわ!」
ぱっと顔を上げる。いつもの明るい笑顔だった。
「カイル様のお父様とお母様が来てくださるのでしょう? それだけでも、わたくしは十分嬉しいです! それに……」
リーザは申し訳なさそうに、声を潜めた。
「本当は、カイル様とご家族だけで、ひっそり挙げるおつもりでしたでしょう? わたくしも、そのほうが気持ちが落ち着きますもの」
「まあね。僕としても、身内だけで小さく祝えれば十分だと思っていたんだけどさ」
僕たちがノルデンへ来て、もう一年近くになる。
あの日——事実上の追放命令を受けた僕についていくと、リーザは家族の反対を押し切って王都を飛び出した。
『でしたら、私も家を出ます! 勘当覚悟です!』と言い切ったあの背中は、なんとも頼もしかったけれど。
(寂しくない人間は、わざわざ「大丈夫」なんて言わないよな……)
部屋を出ていく彼女を窓から見下ろすと、庭を歩いていたリーザがふと立ち止め、遠く王都の方角を見つめていた。
ほんの数秒。すぐに何事もなかったように歩き出したが、その背中はどこか小さかった。
僕は知っている。リーザのご両親が、決して娘を嫌っていたわけではないことを。
【身体強化】の能力のせいで幼い頃から周囲に浮いてしまっていたリーザ。縁談を持ちかけてきた家が、その力を知ると途端に引き下がることも一度や二度ではなかった。だからこそ僕との婚約が決まったとき、リーザの父上は『リーザを……よろしく頼む』と、誰よりも安堵した顔をしていたのだ。
重い溜め息をついて、執務室を出る。
廊下を歩いていると、すれ違った使用人がなにやら楽しそうにコソコソと話していた。
「——例の飾り付け、広場の方はもう終わったか?」
「ハンスさんの工房も、当日は特大の焼き立てパンを用意するって張り切ってたぞ」
「……ん?」
首をかしげながら角を曲がると、そこにはお茶を運んでいたセムラの姿があった。
「セムラ」
「ほほ、カイル様。お茶の準備ができておりますよ」
「なあセムラ。さっきからみんなソワソワしてる気がするんだけど……まさか」
「ほほ、なんのことでしょうかな?」
セムラはすまし顔で湯気の立つカップをテーブルに置いた。目が笑っている。完全に黒だ。
「ひっそり挙げるつもりだったんだけどな……」
「領主様のおめでたいお話です。ノルデンの者たちが放っておくわけがございませんでしょう。ハンスさんもシュルツさんも、警備隊の面々も、皆様腕を鳴らしておりますよ」
やれやれと肩をすくめる。
ルーシェンの丘で僕たちが互いの気持ちを確かめ合ってからというもの、街の連中は僕らが正式に結婚するのを今か今かと待ち望んでいたらしい。
けれど、何もなかったこの街の人々が、他人の幸福をこうして我がことのように祝えるだけの心の余裕を持てたのだと思うと、胸の奥が温かくなった。
「……セムラ」
「なんでございましょう」
「羊皮紙を一枚、もらえるかな。僕が自分で書く」
執務室に戻った僕は、机に向かってペンを執った。
リーザには、内緒で。
『リーザのお父上、お母上へ。
突然のお手紙をお許しください。
このたび、僕とリーザはノルデンで正式に式を挙げることとなりました。
リーザは元気です。
この土地へ来てから、彼女にはずいぶん助けられました。
畑仕事を手伝い、街の人々と笑い、時には僕を叱りながら、今ではノルデンになくてはならない人になっています。
そして——僕にとっても。僕には過ぎた妻です。
リーザは、ご家族を式へ呼ぶことを望みませんでした。
いいえ、きっと望めなかったのでしょう。
ですから、この手紙を送ったことは彼女には伝えておりません。
勝手なお願いであることは承知しております。
それでも。
もし許されるのでしたら——娘さんの晴れ姿を、見てやっていただけませんか。
ノルデン領主 カイル・フォン・ヴァルハイト』




