番外編 「優しい」セルシア様
リーザがまだ、王都の貴族学院へ通い始めたばかりの頃。
彼女には、ひとつだけ人より目立つ能力があった。
――『身体強化スキル』。
魔力を身体へ巡らせ、一時的に筋力や脚力、反応速度を引き上げるスキルだ。
騎士を目指す男子生徒ならば珍しくもない。
けれど、侯爵令嬢であるリーザがそれを持っていたとなると、周囲の反応は違った。
「次。リーザ・ローゼンベルク」
「はい」
教師に名前を呼ばれ、リーザは訓練場の中央へ進み出た。
今日の授業は能力測定。
訓練場に用意された大きな石を、スキルを使って規定の位置まで動かす。
リーザは石の前に立ち、静かに息を吸った。
「——身体強化」
淡い光が細い手足を包む。
腰を落とし、石へ両手を添えて力を込めた。
ゴゴゴ……と、大人の男でも動かせないような巨大な石が、土を削りながら滑っていく。
「おお……」
周囲からどよめきが起きた。
リーザは規定線まで押し終えると、息を吐いてスキルを解除した。
「よろしい。十分だ」
「ありがとうございます」
教官に一礼する。ただ、求められた課題をこなしただけだ。
誰かを傷つけたわけでもない。
それなのに、背後からひそひそ声が追ってきた。
「すごい……」
「女の子なのに、あんな力が出るのね」
「ちょっと怖いかも……」
足が止まりかけたが、振り返らなかった。気にする必要はないと自分に言い聞かせる。
その時だった。
「皆さん、そんな言い方はよくありませんわ!」
澄んだ少女の声が響いた。
セルシア・アルノール伯爵令嬢。
柔らかな金髪に、いつも穏やかな笑顔を浮かべている少女だった。誰にでも親切で、学院に入ったばかりだというのに既に周囲から慕われていた。
セルシアはリーザの前へ出ると、困ったように眉を下げた。
「リーザさんは悪くありません!」
「セルシアさん?」
「確かに、女の子なのに身体強化スキルを使って、あれほどの力を出されたら……怖いと思ってしまう方がいるのも仕方がありませんけれど」
「…………」
「でも、リーザさんだって、好きで皆さんを怖がらせているわけではありませんもの!」
リーザは目を丸くした。周囲の令嬢たちも一瞬黙り込む。
だが、すぐに声が上がった。
「まあ……セルシア様、お優しい」
「本当に。私だったら近寄りにくいと思ってしまうかも」
「それなのにリーザ様のことを庇うなんて」
「そんな……私はただ、リーザさんが可哀想だと思っただけですわ」
――可哀想。
その言葉が、棘のように胸に刺さった。
「……セルシアさん」
「はい?」
「私は、誰かを怖がらせたつもりはありません」
「もちろんですわ!」
「でも先ほど——」
「私だって、リーザさんが悪いなんて思っていませんもの」
「そうではなくて——」
「あ……」
セルシアの表情が曇り、目を伏せる。声が悲しげに震えた。
「私……余計なことを言ってしまいました?」
「え?」
「庇いたかっただけなのですけれど……」
途端に、周囲から責めるような視線が集まる。
「セルシア様は悪くありませんわ」
「そうです、リーザ様。そんな言い方をしなくても」
「親切で助けてくださったのでしょう?」
違う。リーザはきゅっと唇を結んだ。
責めたいわけではない。ただ、「自分は誰かを怖がらせてなどいない」と言いたかっただけなのに。
「皆さん、やめてください!」
セルシアが再び庇うように声を上げ、リーザの手を両手で優しく包み込んだ。
「大丈夫です、リーザさん。私は、あなたの味方ですから」
疑いようもない、綺麗な笑顔だった。
だからこそ、リーザはもう何も言えなくなった。
◇
それから少しずつ、周囲の空気が変わっていった。
『リーザ様って、身体強化スキルがすごいんでしょう?』
『怒らせたら怖そうよね』
『でもセルシア様は仲良くして差し上げているそうよ』
『本当にお優しい方ね』
力を振りかざしたことなど一度もない。
それなのに気づけば、
——力が出すぎて怖いリーザ。
——そんなリーザを可哀想に思って優しくしてくれるセルシア。
という形が出来上がっていた。
「リーザさん!」
昼休み、セルシアが笑顔で歩み寄ってくる。
「今日、一緒に昼食をいただきません?」
「……今日は、一人で食べます」
「まあ……私、何かしてしまいました?」
近くにいた生徒たちがちらりとこちらを見る。
リーザは理解していた。断っても、説明しても、何を言っても無駄なのだと。
「……いいえ」
「よかった! 嫌われてしまったのかと思いましたわ」
セルシアは安心して友人たちの元へ戻っていく。背後で「あんな態度を取られても話しかけるなんて、セルシア様はお優しい」「リーザ様にも色々事情があるのよ」という囁きが聞こえた。
黙って自分の昼食に視線を落とす。
胸の奥に、重く冷たいものが溜まっていく。
怒っていいのか。傷ついていいのか。自分の感覚のほうが間違っているのではないかと、分からなくなっていた。
◇
そんな学院生活の中で、一人だけ気の置けない相手がいた。
「リーザ、これ見てよ!」
放課後。中庭の木陰で、カイルが得意げに紙を広げた。
「何ですの、それ」
「新しい魔導器の構造を考えてみたんだ」
「……またですの? 先週のものも完成していませんでしょう」
「今回はいける!」
「前回もそうおっしゃっていましたわ」
呆れながら紙を覗き込む。相変わらず雑な線と、余白にはみ出した計算式。
「カイル様。こことここ、魔力回路がぶつかっています」
「……あ」
「あと、この出力じゃ魔石が持ちません」
「…………」
「今回も駄目そうですわね」
「リーザって本当に遠慮ないよな……」
「事実ですもの」
「学院の奴らはもっと僕に優しいぞ?」
「でしたら、その方々に見てもらえばよろしいのでは?」
「それじゃ意味ないんだよ」
カイルは可笑しそうに言った。
「みんな、僕が侯爵家の息子だから『素晴らしいです』って言うだけだしさ。リーザは駄目なものは駄目って言うじゃん」
「それは……」
「だからリーザに見てもらいたいんだ」
当然のように言い切られ、リーザは毒気を抜かれた。
「……変わった方ですわね、カイル様は」
「そう? まあいいや、それで、どう直せばいいと思う?」
二人で紙を突き合わせる。
この時間だけは、言葉を選ぶ必要がなかった。嫌なものは嫌。違うものは違う。笑いたい時に笑い、呆れた時には呆れ顔を見せられる。
誰にどう思われるかを計算しなくていい、唯一の場所だった。
「そういえばリーザ」
「何です?」
「今日の実習、すごかったな」
リーザの手がぴたりと止まった。
「……見ていらしたのですか」
「うん」
「…………」
胸の奥が、すっと固くなる。
「……怖くはありませんでしたか? 女の私が、身体強化スキルであんな力を出すのは」
「なんで?」
カイルは間髪入れずに返した。リーザは瞬きをする。
「なんで、と言われましても……」
「だって、すごいじゃん」
「…………」
「僕なんて『魔石生成』しかないし。力仕事なんて全まだまだだからさ」
カイルは苦笑いしながら、自分の手を眺めた。
「今度、僕にもコツを教えてよ。重い材料を運ぶ時に便利そうだし」
「……そこですの?」
「大事だよ? 自分で運べたら作業が早いし」
緊張が抜け、リーザは思わず吹き出した。
「ふふっ……」
「あ、笑ったな」
「だってカイル様、本当におかしな着眼点なんですもの」
「ひどいな」
けれど、その日の帰り道。リーザの足取りは、ほんの少しだけ軽かった。
◇
それから、長い年月が流れた。
夜のノルデン領主館。仕事を終えた二人は、温かいお茶を手にテーブルを挟んでいた。
「……そんなことがあったのか」
「ええ」
昔話を終えたリーザが、カップの湯気を見つめ
る。
「セルシアさん、か」
「学院ではとても評判の良い方でしたわ。誰にでも親切で、皆から『優しいセルシア様』と慕われていました」
「でも君は、嫌だったんだろ?」
リーザの指がピタリと止まる。
「……ええ」
「じゃあ、嫌でいいじゃん」
「……簡単におっしゃいますのね」
「だってさ」
カイルは呆れたように肩をすくめた。
「『リーザが誰かを怖がらせている』っていう前提を自分で作っておいて、『でもリーザは悪くない』って庇うフリをしてるんだろ? それ、最初から庇ってないよね」
「…………」
「否定しようとすると『私、余計なこと言った?』ってなるわけだろ? それ、かなり厄介なやり方じゃないか」
あっさりと切って捨てられ、リーザの口元から小さく吐息が漏れた。
「……ふふ」
「何?」
「いいえ。……なんだか、胸のつかえが取れたような気がいたします」
「本当のことだろ?」
「あの頃の私は、自分がおかしいのだと思っておりましたから」
セルシアは優しい。周囲が皆そう言うからこそ、彼女に不快感を覚える自分の方が性格が悪いのではないかと、何度も自分を責めたのだ。
「『あなたのため』という顔で笑われると……嫌だと思うこと自体が間違いなのかと、分からなくなってしまうのです」
「そんなの、嫌なものは嫌でいいんだよ」
「また即答ですのね」
「だって嫌だったんだろ? だったら、それが答えじゃん」
カイルは昔と何一つ変わらない様子で言った。
昔、自分が身体強化スキルを使った時もそうだった。気持ち悪いとも、女らしくないとも、可哀想とも言わなかった。ただ「すごい」と笑った。
「……そういえば」
「ん?」
「覚えていらっしゃいます? 実習で私が初めて身体強化スキルを使った日のこと」
「覚えてるよ。デカい石を動かした日だろ?」
「……よく覚えておいでですね」
「僕にも教えてくれって頼んだしな」
リーザは静かに目を細めた。
「あの頃、本当の自分を出せたのは……カイル様の前だけでしたわ」
カイルが手を止める。
「皆の前では、どう思われるかばかり考えて言動を選んでいました。でも、カイル様には嫌なものは嫌だと言えましたし、駄目なものは駄目だと言えました。……怒ることも、呆れることもできました」
「僕、そんなに呆れられてた?」
「それはもう、毎日のように」
「そこは否定してほしいんだけど」
リーザが楽しそうに笑うと、カイルも参ったように破顔した。
「じゃあ僕は、昔からずいぶん得をしてたんだな」
「得、ですの?」
「だって、他の誰も知らない本当のリーザを、僕だけが知ってたんだから」
「……っ」
不意を突かれ、リーザの頬が一気に赤くなった。
「な、……そういう言い方をされるのは、ズルいですわ」
「え? なんで?」
「何でもありません!」
ぷいと横を向いたリーザを見て、カイルは不思議そうに首をかしげる。
それから、ふと思い出したように付け加えた。
「僕は今でも、リーザの身体強化スキル、すごく好きだけどね」
「…………」
「だって頼もしいじゃん」
「……カイル様」
「この前も、街で刺客を蹴り飛ばしてくれたし」
「そこで台無しですわ!」
「なんでさ! 本当に助かったのに!」
「もう……!」
呆れたように頬を膨らませるリーザ。
けれどその表情には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
昔、誰かが勝手に「怖くて可哀想なもの」と決めつけた自分の力を。
目の前の人はずっと変わらず、「頼もしい」と笑って認めてくれる。
それだけで、幼い頃から胸の奥に刺さっていた小さな棘が、綺麗に抜け落ちていくような気がした。




