番外編 春だけのシェリーヌあんぱん
ノルデンの畑で、あちらこちらから瑞々しい青い芽が顔を出していた。
「今年はずいぶん土が柔らかいな」
「へえ。去年とはまるで違いますよ、カイル様!」
隣で鍬を振るっていた農夫が、汗を拭いながら心底嬉しそうに笑った。
ルージュ豆やシロカブを交互に植える輪作を導入して二年。さらに大きかったのは、製餡の過程で大量に出る豆の皮も、捨てることなく藁や家畜の糞と混ぜて堆肥にし、畑へ戻すようになったことだ。
パン工房から出たものが土へ還り、その土がまた新しい作物を育てる。
痩せこけて固かったノルデンの畑は、そんな小さな循環を重ねながら、少しずつ力を取り戻していた。
僕も袖をまくり上げ、土の感触を確かめるように耕していく。
「カイル様、領主である貴方がそこまで泥だらけにならなくても……」
「畑の状態は、自分の手で触って踏みしめたほうが分かりやすいんだよ」
「ははあ……相変わらずだ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
そんな会話を交わしながら作業を続けていると、畝の端に見慣れない小さな植物が固まって生えているのが目についた。
しゃがみ込み、小さな莢を摘み取って割ってみる。中から転がり出てきたのは、乳白色をした小粒の豆だった。
「これは……?」
「ああ、アルバ豆ですな」
農夫が僕の手元を覗き込む。
「昔から、この辺りの農家が育ててた豆ですよ。煮るとすぐ柔らかくなる。スープや煮込みには重宝するんです」
「へえ……」
「去年は冷え込んでさっぱりでしたが、今年は土が良くなったおかげか、えらい勢いで育ってましてね」
手のひらの上の白豆を指先で転がす。
白い豆。火が通りやすく、煮崩れしやすい。
そして今のノルデンには、ルージュ豆からこしあんを作るための製餡機と、それを扱う職人たちがいる。
(……待てよ)
豆を煮る。
潰して皮を取り除き、砂糖を入れて練り上げる。
(ルージュ豆でできるなら、この豆でも——)
「このアルバ豆、少し分けてもらえるかい?」
「そりゃ構いませんが……スープでも作られますので?」
「いや」
白い豆を見つめながら、僕は小さく笑った。
「ちょっと面白そうな試みを思いついてね」
◇
「……白いな」
数時間後。ハンスさんの工房の調理場で、僕たちは出来上がった鍋を囲んでいた。
木べらですくい上げると、トロリとなめらかな乳白色の餡が落ちる。
工程はルージュ豆の「こしあん」とまったく同じだ。職人たちの腕が上がっていることもあり、試作は驚くほどあっさりと成功した。
「カイル様、これ本当に『あん』なんですかい?」
「まあ、食べてみてよ」
木匙ですくい、小皿へ取る。
まずは僕が口へ運んだ。
「…………」
「どうです?」
「……うん、いいな」
ルージュ餡のような強烈な主張はない。かわりに、雑味がなく驚くほど上品で優しい甘さが広がる。
白あんだ。前世で慣れ親しんだ、あの和菓子の味。
「ハンスさんもどうぞ」
「どれどれ……おお……! こいつぁ面白い! ルージュ餡とは全然違うな。甘いのに後味が軽い。これなら甘いのが苦手な奴でも食えるぞ」
「パンにも絶対に合うはずだ」
さっそく焼きたてのパン生地へ白あんを詰めてみる。
翌日から店頭に並べられた『アルバ豆の白あんパン』は、派手さこそなかったものの、
『優しい甘さで食べやすい』
『子どもや年寄りに丁度いい』
と、じわじわと口コミで評判を広げていった。
ノルデンの街に、またひとつ新しい選択肢が増え
た瞬間だった。
◇
それから数日後の夕刻。
領主館の執務室で書類を整理していると、静かに扉が開いた。
「カイル様、少しお時間をよろしいですか?」
顔を上げると、リーザが小さな竹籠を抱えて立っていた。
「もちろん。どうしたの?」
「これを見ていただきたくて」
机の上に置かれた籠から、ふわりと被せられた布が除かれる。
中に入っていたのは、淡い桃色をした小さな花がいくつも入っていた。
「……花?」
「シェリーヌですわ」
シェリーヌ。見覚えがある。
この前、ふたりで訪れたあの丘——前領主アルベリク様が眠る丘のふもとにも、青いルーシェンの花に混ざってひっそりと咲いていた桃色の花だ。
「近所の奥様からおすそ分けしていただいたんですの。ノルデンでは昔から、春に咲いたシェリーヌを塩漬けにして保存する習慣があるそうです」
「塩漬けに?」
「ええ。スープのアクセントにしたり、雪解けの時期にお湯に浮かべて『春のお祝い』として飲んだりするのだとか」
リーザが一輪持ち上げた花には、小さな塩の結晶がキラキラと光っていた。
ほんのりと漂う、青く甘い春の香り。
淡い桃色の花と、塩漬け。
(……どこかで見た組み合わせだ)
(いや、そうか——)
前世の記憶が、思考の奥底から引き出される。
桜の塩漬け。桜湯。そして、春の和菓子。
僕は机の上に置かれた、試作のアルバ豆の白あんパンへ視線を移した。
真っ白なあん。
桃色の塩漬けの花。
「……なるほどね」
「カイル様?」
「リーザ、これ少し借りるよ」
「あ……」
僕が立ち上がると、リーザは察したように呆れた吐息を漏らした。
「また何か思いつかれましたのね?」
「分かる?」
「もう何年、隣にいると思っていらっしゃいますの」
「それもそうだね。……よし、ハンスさんのところへ行こう」
◇
「……花をあんに混ぜる!?」
案の定、ハンスさんは目を丸くした。
「甘いあんに、しょっぱい花を入れるんですかい? カイル様、最初はいつも変なこと言いますよね」
「まあまあ、ルージュ餡の時も同じ顔をしてたよ。とにかく一度作ってみよう」
シェリーヌの塩漬けを軽く水にさらして塩気を抜き、細かく刻んで真っ白なアルバ餡へ練り込んでいく。さらに、焼き上げる直前のパン生地の頂点に、一輪の花をちょんと乗せた。
窯から上がってきたパンは、香ばしい生地の香りと、爽やかな花の香気を纏っていた。
白あんに透ける、淡い桃色の花びら。
「……綺麗なパンですわね」
リーザが感嘆の声を漏らす。
焼き上がったばかりのそれを、三人で切り分けて口に運んだ。
「……っ!」
一口食べた瞬間、思わず目が温かくなった。
アルバ豆の上品な甘みの直後、シェリーヌの華やかな香りと、ごく微かな塩気が追ってくる。その絶妙な塩味が、白あんの甘さを何倍にも引き立てていた。
「美味しい……! カイル様、これ凄いですわ!」
「ああ。塩気が甘みを締めてるんだ。……ハンスさん、これ売ろう」
「ええ、売りましょう! 絶対に当たります!」
「ただし——数は絞る。シェリーヌが咲く時期だけの『春限定』だ」
ハンスさんが首を傾げた。
「塩漬けなら保存が効きますし、通年で売ってもいいのでは?」
「いつでも買えるものと、今しか買えないものじゃ、人の感じる価値が違うんだよ」
僕は笑って、桃色の花びらを見つめた。
「まずは『春のノルデンでしか食べられない名物』にするんだ」
◇
数日後。工房の店頭に『春限定・シェリーヌあんぱん』の看板が出された。
『シェリーヌをパンに?』
『春だけしか買えないらしいぞ』
最初は半信半疑だった客たちも、一口食べるとその味わいに驚き、噂はあっという間に街中に広まった。連日、昼前には完売する大盛況となった。
それから数週間後。
シェリーヌの花期が終わり、限定パンの販売も無事に終了した。
領主館の執務室で、ハンスさんから届いた最後の売上報告書を眺めながら、僕は一人ほくほくと笑っていた。
「想像以上の反響だったな……」
向かいでお茶を淹れていたリーザが、くすりと微笑む。
「『限定』にしたのが、かえって皆様の気持ちを惹きつけたのかもしれませんわね」
「うん。『毎年、春になったら食べたくなるパン』になってくれれば大成功だ」
「素敵ですわね」
「え?」
「来年も、その次の年も。シェリーヌの花が咲くたびに、街の人々がこのパンを楽しみに待つ……単なる食べ物ではなく、季節の訪れを祝う思い出になるのですもの」
リーザの言葉に、ハッとさせられた。
経済や流通の数字ばかり追いがちな僕に、彼女はいつも商品の先にある「人の心の豊かさ」を教えてくれる。
「そうだね。やっぱり春限定にして正解だったよ」
「ええ。それに……」
リーザは楽しそうに目を細めると、机の上に残されていた最後のシェリーヌあんぱんを手に取った。
「私、このパンを食べると思い出しますの」
「何を?」
「この前の、丘でのことを」
「……っ!?」
一瞬で心臓が跳ね上がった。
「カイル様が、あの花畑の中で私におっしゃったではありませんか」
『僕が、君と家族になりたいんだ』
リーザは、あの時の僕のセリフを完璧な声真似で再現してみせた。
「っ〜〜! リーザ、わざわざそれを今、蒸し返さなくても……!」
「まあ。カイル様、お顔が真っ赤ですわ」
「春の陽気のせいだよ」
「あいにく本日は曇天ですけれど?」
「…………」
勝てない。この手のかけ引きで、彼女に勝てたためしがない。
真っ赤になって口をつぐんだ僕を見て、リーザはくすくすと嬉しそうに笑うと、手にしたシェリーヌあんぱんを綺麗に半分に割った。
「はい、カイル様」
「……半分?」
「当然ですわ。だってこれは——私たちふたりにとって、特別なパンなのですから」
差し出された半分を受け取る。
ふたり並んで、同時に一口かじった。
柔らかなパン生地。アルバ豆の優しい甘さ。シェリーヌの花の香りと、ほのかな塩気。
「……美味いな」
「はい」
窓の外を仰ぐと、雲の隙間から柔らかな光が差し込み、春風に乗って桃色の花びらが舞っていた。
やがてノルデンでは、春が訪れるたびに『シェリーヌあんぱん』が店先に並ぶようになる。
厳しい冬を乗り越えた人々が、「今年もこの季節が来たね」と笑い合いながら食べる、春の風物詩として。
けれど、僕とリーザにとってはきっと、少しだけ特別な味がする。
この優しい甘さを口にするたび。
一面の青い花に包まれたあの丘と。
喉をカラカラにさせて伝えた、たった一言の告白を。
僕はきっと、生涯何度も思い出すのだ。




