番外編 ルーシェンの丘
ノルデンの大地には春の息吹が満ちていた。
黒くしっとりとした土からは、瑞々しい新しい芽がいっせいに顔を出し、力強く青空へ向かって伸びている。
領主館の執務室で、カイルが書類に目を通していると、ハンスとセムラが並んでやってきた。
二人ともどこかニヤニヤとした、それでいてソワソワとした落ち着かない様子だ。
「カイル様。……今日の執務は、そろそろ切り上げられてはいかがですかな?」
セムラが静かに言えば、ハンスも大きく頷いて身を乗り出してくる。
「そうですとも! 今日は風もなく暖かい。前領主様が眠るあの丘の下——ルーシェンの花畑が、ちょうど見頃を迎えておりますぞ」
「ルーシェンの花?」
「ええ。アルベリク様が好きだった青い小さな花です。一面に咲き誇って、そりゃあ見事なもんで。……ほら、カイル様。たまにはリーザ様を散歩にでもお誘いなさったらどうです?」
「ハンス、言葉が直球すぎますぞ。……ですがカイル様、冬を越し、街も落ち着きました。そろそろ『先延ばし』にしておられたことにも、お答えを出すべきでは?」
二人の温かくも逃げ道を塞ぐような眼差しに、カイルは苦笑するしかなかった。
街の誰もが、二人の関係を温かく見守り、そして焦れったく思っていたのだ。
「……分かったよ。ありがとう、二人とも」
◇
前領主アルベリクが眠る丘の下。
そこには、春の柔らかな光を受けて、一面に青いルーシェンの花が咲き誇っていた。
風が吹くたびに、小さく可憐な花びらが舞い上がり、青い絨毯のように波打つ。
「綺麗なところですわね……」
カイルに誘われてやってきたリーザが、薄紫の瞳を輝かせて感嘆の声を漏らした。
二人は並んで、芽吹き始めた畑の畦道をゆっくりと歩く。
「今年は、去年よりずっと早く種を蒔けそうですわね」
「ああ。備蓄にも余裕がある。冬を越せなかった家もない。商人も増えたし、警備隊もようやく形になってきた」
指折り数えながら、カイルは街のほうを振り返った。
煙突からいくつもの白い煙が上がっている。
初めてこの地へやって来た日には、まるで死んでいるように静かだった街だ。
今は遠くからでも、人々の活気ある声が聞こえる。
「……冬を、越したんだな」
ぽつりと呟く。
「はい」
リーザも足を止め、街を見つめた。
「みんなで、越しました」
その言葉に、カイルは小さく笑った。
そうだ。自分一人で成し遂げたわけではない。
そして——。
どんなに苦しい時でも、ずっと隣にいてくれた人がいた。
「リーザ」
「はい?」
「君には、ずいぶん苦労をかけたね」
「……今さらですの?」
くすりと笑われ、カイルも苦笑する。
「王都に残っていれば、もっと楽な暮らしができただろう。泥まみれになることも、暗殺者を蹴り飛ばすこともなかった」
「後半は普通の令嬢なら経験しないと思いますわ」
「はは。それもそうだ」
二人の笑い声が、春先の風に溶けていった。
舞い散るルーシェンの青い花びらが、リーザの銀髪にふわりと舞い落ちる。
やがてカイルは、もう一度ノルデンを見渡し、そして静かに言った。
「……ずっと思っていたんだ」
リーザが隣を見る。
「領民が腹いっぱい食べられるようになったら。冬を越せるようになったら。街がもう少し安全になったらって」
一つ片づけば、また次が見つかった。
だから、自分たちのことは後でいいと思っていた。
「でも、冬も越した」
カイルはリーザへ向き直った。
「ノルデンも、ようやく落ち着いてきた」
「はい」
「だから——」
そこで初めて、カイルの言葉が止まった。
(……心臓が、うるさい)
ドクン、ドクンと、胸の奥が激しく脈打っていた。
国の巨額の予算を動かした前世でも。
大勢の人間を相手に交渉を重ねてきた、この人生でも。
たった一言を口にすることが、これほど難しかっただろうか。
今まで生きてきた中で、経験したことのない緊張。
手のひらに冷や汗が滲み、喉がカラカラに渇いて息がうまく吸えない。
「……リーザと、夫婦になりたいんだ」
喉の奥から、振り絞るように出た声だった。
薄紫の瞳が、大きく見開かれた。
「…………」
「…………」
春風だけが、二人の間を通り抜け、青い花びらを散らしていく。
「……リーザ?」
「いま……なんと?」
「だから、君と夫婦に——」
「聞こえております!」
顔を真っ赤にしたリーザが、思わずといったように声を上げた。
顔を背けるようにしてしばらく俯いていたが、やがて何かを確かめるように、おそるおそる尋ねる。
「それは……私たちが婚約者だから、ですか?」
「え?」
「ヴァルハイト侯爵家のためでも、私の家との約束のためでもなく……」
リーザは胸元でぎゅっと手を握りしめた。
「カイル様ご自身が、そう望んでくださっているのですか?」
カイルは答えようとして——口を閉じた。
理由なら、頭の中でいくらでも整然と並べられる。
けれど。
今、隣にいるのがリーザではなくなる未来を想像してみる。
朝、執務室へ行っても彼女がいない。
芽吹き始めた畑へ行っても、呆れた声が飛んでこない。
何かを思いついて振り返っても、あの薄紫の瞳がそこにはない。
それは——。
「……嫌だな」
「え?」
思わず漏れた言葉に、今度はカイル自身が少し驚いた。
それから、照れくさそうに頭を掻く。
「君が僕の隣にいなくなるのは、嫌だ」
リーザが息を呑んだ。
「だから、婚約者だからじゃない」
カイルは手を差し出した。
かつてリーザが、自分からノルデンについてくると決めたあの日とは逆に。
今度はカイルから。
「僕が、君と家族になりたいんだ」
リーザはしばらく、差し出されたその手を見つめていた。
やがて——。
「……遅いですわ」
その手を取った。
「え?」
「本当に、本当に……遅すぎます」
目元にはうっすら涙が浮かんでいるのに、リーザは溢れんばかりの笑顔で笑っていた。
「でも——はい。私も、カイル様と夫婦になりたいです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張り詰めていた緊張が、ふっとほどけた。
「……そうか」
たったそれだけしか、言葉が出てこなかった。
数え切れないほどの人間を相手に、言葉を尽くしてきた男が。
今は、気の利いた言葉ひとつ浮かばない。
だからカイルは、握っていたリーザの手をそっと引いた。
「きゃっ……」
小さな声とともに、銀色の髪が胸元へ飛び込んでくる。
その華奢な身体を、カイルは両腕でやわらかく抱きしめた。
「カ、カイル様……?」
「……ありがとう、リーザ」
「え?」
「僕と一緒に、ここまで来てくれて」
一瞬だけ、リーザの身体が強張った。
やがて彼女も、恐る恐るカイルの背中へ腕を回してくる。
「……こちらこそ」
小さな声が、胸元から心地よく響いた。
「私を、ここまで連れてきてくださって……ありがとうございます」
二人はしばらく、静かに抱き合ったまま佇んでいた。
王都の華やかな庭園でもない。
豪華な舞踏会でもない。
足元にひろがるのは、力強く青々とした新芽と、可憐に咲き誇るルーシェンの青い花々だ。
けれど——。
ここは二人で選び、二人で冬を越した場所だった。
見上げれば丘の上に立つアルベリクの墓標が、二人の門出を静かに見守っているようだった。
春の柔らかな風が吹き抜け、散った青い花びらが二人を包み込んでいた。




