第4話 カイルの気づき
翌朝。
僕はリーザとともに、領主館を出てノルデンの街を歩いていた。
「カイル様、まずは執務室で帳簿をご覧になるのでは?」
「もちろん見るよ。でも、その前に自分の目で見ておきたいんだ」
「街を、ですか?」
「帳簿に書かれているのは数字だからね。その数字の向こうで、誰がどう暮らしているのかまでは書いてない」
領主館から市場へ続く石畳を歩く。
かつては交易で栄えたという通りも、今は見る影もなかった。
開いている露店はまばらで、並んでいるのは萎びた野菜がわずかばかり。店主は暇そうに座り込み、道行く人々も店先へ目を向けようとしない。
いや——違う。
見てはいるのだ。一人の女が野菜を手に取り、値段を尋ねた。そして少し迷った末、何も買わずに戻していく。
(……物がないだけじゃない)
僕は足を止めた。
(買えないんだ)
「……みなさん、着ている服もずいぶん傷んでいますわね」
リーザが小さく呟く。
母親の裾を握って歩く子供の服には、何度も破れを繕った跡があった。
だが、通りの向こうには服屋があり、店先には商品が並んでいる。
「服がないわけじゃない」
「え?」
「買う金がないんだよ」
服が売れない。服屋の収入が減る。服屋が金を使えなくなれば、今度は別の店の商品が売れなくなる。
「……悪循環、ということですか?」
「そういうことだね」
僕は再び歩き始めた。
店はある。商品もある。働ける人間もいる。
それなのに、売れない。買えない。
(なるほど……)
少しずつ、この領地の病巣が見えてきた。
お金という血液が、この街をまったく巡っていないのだ。
* * *
領主館へ戻った僕は、案内された執務室でさっそく山積みの書類を開いた。
埃っぽい部屋の片隅で財政帳簿をめくると、出てくるのは気の遠くなるような赤字の山だった。
税収は激減し、中央からの補助金もカット。文字通りの破産状態だ。
だが——帳簿の奥から出てきた数冊の分厚い手記に目を留めたとき、僕は指を止めた。
そこには、几帳面な文字でびっしりと書き込みがされていた。
『〇年〇月:東側の農地を調査。冷え込みが厳しく、従来の小麦では育ちが悪い』
『〇年〇月:水路の修繕計画図を作成。王都へ職人の派遣と財政援助を要請するも、却下される』
『〇年〇月:領民の税負担を減免。しかし、これ以上の設備投資を行う資金が底を突いた』
それは、急病で亡くなったという前領主が残した、血の滲むような改革の記録だった。
「……カイル様? その資料は……」
「前の領主さんはね、決して無能じゃなかったんだよ。農地を調べ、水路の計画を立て、なんとかこの領地を救おうと必死に動いていた」
空っぽの金庫と手記を見比べる。
最後のページには、震える文字でたった一言だけ残されていた。
『金が、足りない』
僕はしばらく、その文字から目を離せなかった。
やるべきことは分かっていた。救いたい人間も、具体的な計画もあった。
それでも、金がなければ何ひとつ動かせない。
(……悔しかったろうに)
前世で何度も大蔵大臣を経験し、予算の壁に泣く人々を嫌というほど見てきたからこそ、この男の無念が痛いほど胸に刺さる。
ふと、数日前に焼いたあのあんぱんを思い出した。
あの一口が、あれほど嬉しかったのは——。
食べたいものを選び、美味いと笑える。そんな当たり前の心の余裕があったからだ。
窓の外で見た、擦り切れた服の子供が頭に浮かぶ。
(……そうか)
僕が作りたいのは、あんぱんだけじゃない。
あんぱんを買って食べたいと思える暮らしなんだ。
服屋で服を買える。パン屋であんぱんを買える。給料が入る。店が儲かり、また誰かを雇う。
お金という血液を、もう一度この街に循環させる。
(ならばその執念——わしが引き継ごう。この領地を、必ず立て直してみせる)
「カイル様、お顔が怖いですわ……?」
「ああ、ごめんごめん。大丈夫だよ」
僕は手記を丁寧に閉じ、立ち上がった。
よしリーザ、実際に畑を見てみよう!」
* * *
案内人に連れられ、僕たちは最も荒廃しているという北側の農地へ向かった。
視界に広がったのは、ひび割れて干からびた茶色い大地だ。
「ここ数年は何を植えてもダメなんです。土が痩せちまってるのは分かってますが、肥料を買う金がねえ。収穫が減り、金がなくなり、肥料も買えねえ。……どうしろっていうんですかい」
領民が悔しそうに泥のついた鍬を握りしめる。
金がないから土に手を入れられず、土が悪いから収穫が減り、さらに金がなくなる。
市場で見た光景と同じ、出口のない悪循環だ。
僕は泥がつくのも構わずその場に膝をついた。
干からびた土をひとつまみ手に取り、指先でこすって固さと湿り気を確かめる。
(……王都の実験場で何度も失敗した、あの頃の土にそっくりだ)
冷え込みの厳しさ、育ちの悪い小麦、そして前領主の手記。
パズルの欠片が、頭の中で一つに噛み合っていく。
(やはりそうだ。寒冷地特有の、この土壌……!)
失敗なら、王都で嫌というほど経験してきた。
泥にまみれて何度も土を作り直してきたからこそ——今度は何を試せばいいのかが、はっきりと分かる。
「カイル様……?」
不思議そうに見つめるリーザと農民たちを見上げ、僕は立ち上がって衣服の泥を払った。
「みんな、心配いらないよ」
絶望するには、まだ早い。
「策はある。さあ——ひっくり返そうか」
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(手間かもしれませんが……あると嬉しいです(TT)




