第35話 小さな循環と、繋がる水路
「で……結果はどうだったんだい? レイン」
領主館の執務室。僕は机の上に広げた羊皮紙に目をやりながら、目の前に立つレインに尋ねた。
レインは街の外や近隣の集落へ荷車でパンを運び、行商をしてくれている青年だ。彼は手元のメモをめくりながら、ハキハキと報告してくれた。
「はい、カイル様! 街の外……特に鉱山近くの作業場や、隣町へ向かう街道の旅人たちに圧倒的にウケがいいのは『粒あんパン』です!」
「粒あん、か」
「ええ! 『腹持ちが良くて食い応えがある』『小腹が減った時に最高だ』って、作業着の男たちや旅人がまとめ買いしていきますよ。逆に、なめらかな『こしあんパン』は、外だと『上品すぎる』『すぐ食べ終わっちゃう』なんて声もありました」
「なるほどな……」
僕は深く頷き、隣に立っていたハンスさんに視線を向けた。
「いっぽうで、ハンスさんの工房の店頭はどうですか?」
「うちは真逆だな」
ハンスさんは腕を組み、ニッと笑った。
「街の店頭だと、やっぱり『こしあんパン』が圧倒的に優勢だ。特に子どもやお年寄りが連日買っていく。『皮が歯に挟まらなくて食べやすい』ってな」
「……金額設定は、手間の分だけ『こしあんパン』のほうが少し高くしてあるのにね」
僕は思わず感心して呟いた。
外で働く労働者や旅人は、安くて腹持ちのいい『粒あん』を求める。
いっぽう、街の中で暮らす家族連れやお年寄りは、多少高くても食べやすくて上品な『こしあん』を求める。
(やっぱりだ……! 市場がちゃんと分かれている。ただ『こしあんパン』に一本化するんじゃなく、ターゲットに合わせて商品を届ける場所を変えればいいんだ)
「じゃあ、こういう配置にしよう」
僕は羊皮紙にペンで丸をつけた。
「レインが運ぶ行商の荷台には『粒あんパン』を多めに積む。そして街の工房の店頭には『こしあんパン』を少し多めに置こう。これで、お互いの需要を食い荒らすことなく、両方の客層に最高の状態で届けられる」
「なるほど! それなら無駄も出ねえし、どっちの客も大満足だ!」
レインが嬉しそうに拳を握りしめた。
◇
「……そりゃそうと、カイル様。実はな、いい話があるんだ」
レインが行商の準備のために退室した後、ハンスさんが少し照れくさそうに頭をかいた。
「いい話?」
「ああ。あんぱん導入のおかげで工房の利益が上がったろ? おかげで職人どもの給料を増やしてやれたんだが……最近、昼休憩の時に工房で出ている話題が面白くてな」
「ほう? どんな話ですか?」
「『今月の給料で、久しぶりに新しい服が買えた』とか『子どもにお小遣いを渡してやれた』とかさ。あいつら、すごく嬉しそうに話すんだよ」
「……っ」
ハンスさんのその言葉を聞いた瞬間、胸の奥から込み上げるものがあり、目頭が熱くなった。
(……新しい服。子どもへのお小遣い……)
領主館の中で書類の数字だけを眺めていたら、決して見えてこなかった景色。
僕が作ろうとしていたのは、単なる売上や金貨の山じゃない。
この街で暮らす人々が、日々の仕事に誇りを持ち、家族と笑い合える普通の日々なのだ。
「……ハンスさん」
「ん? なんだいカイル様」
「……ありがとう。僕が一番見たかったのは、そういう景色だったんだ」
「ヘッ……お礼を言うのは俺たちのほうだぜ、カイル様」
ハンスさんは照れくさそうに笑い、鼻を鳴らした。
◇
「さて! 感動してる場合じゃないな。課題は山積みだ」
僕は目頭を指でぬぐい、思考を切り替えた。
「ハンスさん、こしあんパンの生産をさらに増やすとなると……一番のネックは何だと思います?」
「うーむ、製餡機のおかげで『すり潰す』工程は爆発的に速くなった。だが……『豆を水にさらして雑味を抜く』工程だけは、どうしても大量の綺麗な水がいる。今の工房の設備じゃ、水を用意するだけでも一苦労だ」
「水、ですか」
「ああ。浄水機械を大型化して、一度に使える綺麗な水の量を増やさねえと、こしあんの仕込みが頭打ちになっちまう」
ハンスさんが困ったように眉をひそめる。
「そんなに大量の水を用意できますかね……? あ……! そういえば……」
ハンスさんがハッと顔を上げた。僕も顔を見合わせ、二人で同時に笑ってしまった。
「「水路だ……!」」
「あの水路があるから、工房のすぐ裏まで清流を引き込める! 大型の浄水機械を取り付ければ、いくらでもきれいな水が使えるぞ!」
ハンスさんが興奮気味に声を張り上げた。
「……前領主が残した計画が、こんなところでも役に立つなんてな」
僕は窓の外へ目を向けた。
ノルデンへ着任したばかりの頃、領主館の資料室で見つけた古い計画書。その中にあったのが、老朽化した大水路の修繕計画だった。
王都の財務官——ガルシアは、かつて前領主から出された修繕要請を「費用対効果がない」「投資価値ゼロ」と切り捨てたという。
前領主は水路を直す必要性に気づきながらも、金も人手も足りず、実現できないままこの世を去った。
けれど、僕には見えた。
そこに記されていたのは、単なる土木工事の算段じゃない。この土地をどうにか立て直そうとした、先代の必死の想いだった。
だから僕は、その計画を引き継いだ。
領民に綺麗な水を届け、畑に水を引くために、着任して最初に手をつけた事業だった。
街を巡る水路からは、今日もキラキラと光を反射しながら、豊かな水がさらさらと流れている。
(あの人が計画し、僕たちが直した水路が……巡り巡って、新しい産業の土台になっている)
僕一人で、この土地を立て直しているわけじゃない。
前にいた人が残したものを拾い、今いる人たちが形にして、それがまた次の誰かの仕事に繋がっていく。
「ハンスさん! 鍛冶職人に頼んで、水路から直接引き込める大型浄水ユニットを作ってもらいましょう!」
「おうよ! これで『こしあん』の増産体制も完璧だな!」
窓の外では、水路を満たす清流が、街の向こうへと流れていく。
かつてガルシアに捨てられた過去の計画が、時を経て今、ノルデンを潤す源流となっている。
その水と同じように、ノルデンの金も、人も、仕事も——そして人々の想いも、少しずつ巡り始めていた。




