第30話 誰が困っている?
集まった声の束と、手元の紙を見比べる。
そこに書かれた文字は、たった一言。
『皮』
(皮が残る……粒あんだからな)
あんこはルージュ豆を煮て潰したものだ。当然、煮崩れた豆の皮はそのまま残る。
それが「あんこらしさ」でもあるのだが、子どもやお年寄りにとっては、その皮が口に残ったり歯に挟まったりして気になるらしい。
僕はすぐにハンスのパン工房へと足を運んだ。
「ハンスさん。煮た豆から皮だけ取り除けないかな?」
「皮だけ、ですかい?」
ハンスは大きな鍋の中の餡を覗き込み、困ったように眉をしかめた。
「一粒二粒ならともかく、これ全部となると……。今の人数じゃ、とても」
「やっぱりそうか」
「それに、せっかく皆が作業にも慣れてきたところですからねえ。下手に工程を増やしゃ、その分だけ一日で作れる数も減りますぜ」
「…………」
確かに。
改善のために現場を疲弊させたり、生産量を落としてしまっては本末転倒だ。
(味の改善じゃない。必要なのは……現場に負担をかけない別の手段だ)
腕を組み、うーんと唸りながら工房を出た。
帰り道、街を歩く。
頭ばかり使っていると、思考が止まる。こういう時は街の空気を吸うに限る。
春の柔らかい風が吹き抜けていった。
流通が戻り始めたノルデンの大通りには、どこか誇らしげな活気が満ちている。
街道沿いには新しい露店や食堂が増えていた。外からの商人や旅人が増えた証拠だ。
(……ふう。腹が減っては、戦はできないな)
ぐう、とお腹が鳴った。
そういえば昼食を食べるのも忘れて書類と睨めっこしていたのだ。
(ほう……あそこは他所から流れてきた店かな? 美味しそうな匂いがする)
吸い寄せられるように、僕は木造の小さな食堂の暖簾をくぐった。
席につき、店主のおすすめだという料理を注文する。
「お待たせしました!」
運ばれてきたのは、温かいスープに焼き立てのパン、そして——木皿に盛られた、目にも鮮やかな派手な紫色のペーストだった。
「……これはなんだい?」
「これは、グリード国の伝統料理『ツヴィック』ですよ。紫根菜を煮詰めて裏ごししたものです。パンにつけて召し上がってください」
(うっ……)
店主が離れたあと、一瞬、喉がひくりと鳴った。
見たこともない謎の鮮やかさに、脳が本能的な警戒信号を出している。
(……リーザや、王都時代のコックがあんこを差し出された時に、食べるのを躊躇った理由が今さら身に染みるな……)
「僕が毒なんて入れるわけないだろ」と言った昔の自分を殴りたい。
未知の食い物というのは、見た目だけでこれほど食べるのに勇気が要るものなのか。
意を決して、木スプーンでそれをすくい、恐る恐る口へと運んだ。
「…………っ!?」
口に入れた瞬間、目を見開いた。
ザラつきやクセが一切ない。舌の上ですっと解け、濃厚な甘みが滑らかに広がる。
(なんだこの食感……ざらつきが一切なくて、つるりと喉を通っていく……!)
その滑らかな舌触りを感じた瞬間、脳裏の奥底で、固く閉ざされていた前世の記憶の扉が弾け飛んだ。
(そうだ……! 忘れていた……!)
前世の僕は菓子職人ではない。だから「作り方」は最初から知らなかった。
だが、前世の日本で、あの味を知っていたはずだ。
(あんこには、たしか——)




