第29話 あんぱんへの小さな不満
「ふう……今日もいい天気だな」
窓から外を見上げれば、吸い込まれそうなほどの青空が広がっていた。街の方角からは、朝を知らせる清々しい鐘の音が響いてくる。
寒さのやわらいだ風に乗って届く、新しい季節の息吹。
先日の春祭りのおかげで、ノルデンにおける『あんぱん』の認知度は一気に上がった。
開催前は「祭りなど贅沢だ」という反発の声も少なからずあったが——終わってみればどうだろう。
祭りの帰り道、すれ違う領民たちは皆、どこか晴れやかな笑顔を浮かべていた。
僕は机に向かい、帳簿をめくる。
パン工房からの納税額。市場の取引量。ギヤミルクの出荷量。どれも少しずつ増えている。
(……ちゃんと、残ってる)
春祭りの一夜だけじゃない。仕事が増え、人が物を買い、その金がまた誰かの収入になる。
ノルデンは少しずつ、本当に動き始めていた。
(このまま順調にいってくれればいいんだが……)
そんなことを考えていた午後のことだった。
視察と気分転換を兼ねて、僕はハンスのパン屋の店頭に立っていた。
「いらっしゃい! 焼きたてのあんぱんだよ!」
威勢のいいハンスの声に引き寄せられるように、今日もお客が途切れない。すっかりノルデンの名物となった丸いパンが、次々と売れていく。
(うん、大盛況だな)
満足げに頷いていたその時、買い求めに来た一人の客の会話が耳に飛び込んできた。
「やっぱりこの甘さがたまらんよねぇ。……まあ、味は大好きなんだけど、時々豆の皮が歯に挟まるのだけが玉にキズなんだけどさ」
「わかるわかる。美味しいんだけどねえ」
笑い合いながら去っていく客たちの背中を、僕はぽかんと見送った。
(皮……? 僕は気にしたことがなかったな)
前世の感覚、そしてカイルとしての感覚でも、粒あんのあの皮の食感は「あんこらしさ」そのものだった。だが——
(……いや、待て。僕が気にならないからといって、客も同じとは限らない)
あんぱんを最初に売り出したとき、それで一度失敗している。自分がおいしいと思うことと、客が買いたいと思うことは別なのだ。
(小さくても、これは客の『声』だ)
屋敷に戻った僕は、行商で領内の隅々まで足を運んでいるレインを呼び出した。
「レイン。次に行商へ出るとき、ひとつ頼まれてくれないか」
「なんです?」
「あんぱんを買った人に、気になるところがないか聞いてきてほしい。味だけじゃない。食べにくいとか、大きすぎるとか、値段とか。どんな小さなことでもいい」
「不満を聞いて回るんですか? あんなに売れてるのに?」
「売れてる今だからだよ」
「……売れてる今だから」
レインはぽかんとしたあと、ニヤリと口角を上げた。
「わかりました。集めてきますね」
◇
その日の夕方。
執務室で書類を整理していると、ぬうっと影が差し込んだ。
警備隊長となったローグだ。腰の剣を揺らしながら、相変わらず愛想のない顔で入ってくる。
「巡回報告か? ローグ」
「ああ。街の治安は問題ない。……それと、だ」
ローグはそこで珍しく言葉を詰まらせ、視線を気まずそうに泳がせた。
「なんだい? 遠慮せずに言ってくれ」
「……名物のあんぱんなんだが。妹が食ってた」
「え?」
思いがけない名前が出て、僕は作業の手を止めた。
「へえ。気に入ってくれた?」
「たまたまだ。街の奴からもらったらしい。……でだ」
「?」
「味はうまいと言っていた。ただ……歯に皮が挟まるのが嫌らしい」
ローグは少し眉をひそめ、己の歯を指さした。
「……また『皮』か」
「……それだけだ」
そう言い捨て、ローグはさっさと背を向けた。
「教えてくれてありがとう。妹さんにもよろしくね」
「……余計なことは言わなくていい」
そう返しながらも、その足取りは以前よりずっと軽く見えた。
一人残された僕は、手元の紙に大きく『皮』と書きつける。
◇
数日後——。
「カイルさん。集まりましたよ」
レインが執務机の上へ、束になった紙を置いた。
「思ったより多かったです。特に——子どもと、お年寄りですね」
「…………」
僕はローグから聞いた話を書き留めた紙を取り出した。
『皮』
偶然じゃない。
「なるほど……」
僕は集まった声を、一枚ずつ読み始めた。




