番外編 春風の吹く場所で
かつて、パン屋の求人を見て応募してきた子の話。
私には、家族がいなかった。
いや、正確にはいた。
数年前、ノルデンを酷い流行病が襲った。貧しかったこの街では薬もろくに手に入らず、父も母も幼い弟も、あっけなく命を奪われていった。
一人取り残され、身寄りもなく、絶望のまま途方に暮れていた私の前に、あの人が現れたのはそんな時だった。
「アンタが、メリアかい?」
綺麗な束ね髪に、分厚い革底の靴。紫煙の燻るタバコを指に挟み、どこか怠そうに私を見下ろしていた女性。
「はい……。あの、あなたは……?」
「アタシ? アンタの母さんの腐れ縁……かな。リルカってんだ」
そう言って、彼女は短くなったタバコを吐き捨てると、「来な」と短く言った。
それが、私の新しい家——薄暗い路地裏にあるバー『La Lune』との出会いだった。
「アタシはこのバーのママさ」
最初は失敗ばかりだった。手がすべってグラスを割り、縮こまる私に、ママは怒るでもなく「怪我はないかい」と手ぬぐいを放り投げてくれた。
けれど、時には気の荒い客もいた。
「チッ、小娘が調子に乗りやがって……!」
ある夜、酔った客が怒鳴り散らし、酒瓶を振り下ろそうとした。
恐怖で目を瞑った私の前に、迷わず割って入ったのはママだった。
鈍い音。ガシャンと砕けるガラス。
「すみませんね……ウチの若いのが」
「チッ……。金なんて払わないからな!」
冷ややかな声で客を追い払ったあと、カウンターの奥で手当てをするママの腕には、痛々しい傷が残っていた。
「てて……、しばらく跡になりそうだねぇ」
「ごめんなさい、ママ……っ! 私のせいで……!」
「気にしなさんな。あんなんでも客だからねぇ。追い出せないのさ……この街じゃあね」
自嘲気味に笑うママの顔を見て、胸が締め付けられた。
「ママは……どうして、バーを……?」
「アタシには、なんの能力も才能もない。あるのは親譲りのこの顔くらいさ。だから、利用できるものはなんでもして生きてやるのさ」
何かをこらえるような、そんな表情。
「ママは……辛くは……ないんですか……? 死にたい時とか」
ポツリとこぼれた本音。家族がみんないなくなって、「どうして私だけ置き去りにしたの」と寝る前に何度泣いたか分からない。
私の言葉に、ママはふっと目を伏せた。
「子供が……こんなちっちゃな赤ちゃんがいたんだ。流行病で、あっけなくいっちまったけど、さ」
「……っ」
「アタシも消えようと思ったよ。でもね、手紙でアンタの存在を知った。……だからさ、生きていけるのさ」
そう話して、ママは愛おしそうに私の頭に手を置いた。
それでも、毎日がどことなく灰色だった。
仕事を終え、狭い部屋に戻って泥のように眠る日々。ママには命の恩人として感謝している。だけど……私は死ぬまで、この狭く暗い世界で傷つきながら生きていくのだろうか。ずっと、このまま。
ノルデンには、他に仕事なんてどこにもなかったのだから。
◇
街が変わ動し始めたのは、新しい領主——カイル様が来てからだった。
死んでいた畑が蘇り、香ばしいパンの匂いが街を包み、職人や商人が行き交い始める。
ある日、買い物帰りにふと目に留まった一枚の紙。
『働き手募集——経験不問・年齢不問・性別不問。身分・前職も問いません』
(……前職も、問わない……?)
心臓が大きく脈打った。
こんな私でも、日の当たる場所で一歩を踏み出せるのだろうか。
「あの、ママ! 話があります」
「ふぁ……なんだい、朝から」
目をこすりながら起きてきたママに、私はギュッと握りしめたチラシを差し出した。
「私……ここで働いてみたいんです」
ママは訝しげにチラシに目を落とす。
胸の奥で心臓がうるさく鳴り響いていた。恩人であるママを捨てるような、裏切りになるんじゃないか。そんな怖さが押し寄せる。だけど——。
ママはチラシから目を離すと、ふっと息を吐き出し、背を向けてベッドに潜り込んだ。
「ふん……。勝手にしな……」
ボソリと呟いて、そのまま眠りについてしまったママ。
胸が締め付けられるように苦しかったけれど、それ以上に「やってみたい」という気持ちを抑えつけることはできなかった。
◇
そうして跳び込んだパン工房。最初は不安でいっぱいだった。
けれど、カイル様は言ってくれた。
『そこで覚えたことも、君が身につけた立派な技術だろ?』と。
バーで培った接客の手際、人を見る力、商品の丁寧な包装、そして——笑顔。
「メリア先輩! こっちの袋詰め、任せてください!」
「ありがとう! いらっしゃいませ、本日の焼き菓子はこちらです!」
いつしか私にも後輩ができ、毎日が鮮やかな色彩で満たされていった。
過去を捨てなくても輝けるって、そう思えたんだ。
◇
その日はいつもよりお店が繁盛して、帰り道が遅くなった。
残りのパンを大事に手にして、買い物を済ませる。
夜の街を歩くなんて、いつぶりだろう。
ふと、思い立った。
ママに今の私を見てもらいたい。
こんなに元気だよ、って伝えたい。
気がつけば足は、あの懐かしいドアへと向かっていた。
出ていった日と変わらない扉。
なかなかノックできなくて、扉の前で深く息を整える。
コンコン。チリン。
「あのっ……ママ」
静かに鈴を鳴らして店に入ると、カウンターの奥でママがハッと振り向いた。
「メリア……!」
紙袋をぎゅっと抱きしめたまま、私はうまく言葉が出ない。
ママは一瞬目を見開いたあと、照れ隠しのようにいつもの斜に構えた顔を作った。
「何の用だい? あいにく忙しいんだよ」
「……っ」
「だからさ。突っ立ってないでおいで」
促されて店内を見回せば、店の雰囲気が昔とどこか違っていた。
荒くれた労働者ばかりだった店内に、仕事終わりの若い職人や商人の姿がある。皆、穏やかな顔で酒を味わっていた。
ノルデンが豊かになり、夜の街にも健全な活気が戻っていたのだ。
今では警備隊の巡回のおかげで帰り道も安全になり、嫌がる女の子を無理に接客させる必要もなくなった。
「この街は変わったね……」
ママが店内を見渡しながら、静かに呟く。
「バーに来る客もさ、前と違うんだ。『女の子に絡むなら帰っとくれ』って言えるくらいにはね」
そう言って、ママは奥のテーブルで楽しそうにお客さんと話す新しい若い女の子に目を向けた。
「あの子、この仕事が好きでやってんだとさ。……アンタはパン屋が好き。それでいいだろ」
職業に上も下もない。自分の意思でここを選び、誇りを持って働いている。
その光景が、たまらなく嬉しかった。
「これでも心配してたんだよ」
ママの視線が、私に戻る。
「アンタの取り柄の笑顔が、くもってやしないかってさ」
「……ママ」
涙が零れそうになり、私は慌てて抱えていた紙袋を差し出した。
中に入っているのは、私がカイル様たちと一緒に試行錯誤して作った、焼きたてのあんぱんだ。
「これ……私が作ったんです。食べてみてください」
ママは紙袋からパンを取り出すと、一口、小さくかじった。
ゆっくりと咀嚼し、ゴクリと飲み込んでから——ニヤリと意地悪く笑った。
「……まだまだだね」
「うっ……」
「でも、悪くないよ」
思わず「もうっ」と口を尖らせると、ママが愛おしそうに私の頭に手を置いた。ポンポンと優しく叩いてくれるその手の温もり。
「ほら。それだよ。アンタの取り柄」
涙を浮かべながら笑う私を見て、ママは本当に嬉しそうに目を細めた。
開いた扉から、春の夜風がそっと吹き込んでくる。
風に乗って運ばれた桃色の小さな花びらが一枚、二人を照らすカウンターの上に、静かに落ちた。
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