番外編 老執事セムラの日誌①
今回は、少しだけカイルではない人物のお話です。
ノルデンが少しずつ変わっていく中で、
この土地を長く見つめてきた老執事セムラは、ある場所へと向かいます。
月に一度だけ、私は朝の仕事を少しばかり他の者に任せ、領主館を出る。
街を抜け、小高い丘へ続く道をゆっくりと登っていく。
若い頃なら息ひとつ乱さず登れた坂も、今では少々堪える。 まったく、歳は取りたくないものだ。
けれど、この日だけは誰かに代わってもらおうとは思わない。
丘の上には、ひとつの墓がある。
前ノルデン領主――アルベリク様。
私が長年お仕えした、旦那様の墓だ。
「……また参りましたぞ、旦那様」
墓石の前に膝をつき、持ってきた布で表面を拭う。
枯れ葉を払い、伸び始めた雑草を抜き、花を供える。
いつもと同じことを、いつもと同じ順番で。
ただひとつ、以前とは違うものがあった。
――音だ。
丘の下から、かすかに声が聞こえてくる。
市場で客を呼び込む商人の声。
荷馬車が石畳を走る音。
工房から響く、威勢のよい掛け声。
そして時折、風に乗って届く子供たちの笑い声。
私は墓石を磨く手を止めた。
「……聞こえますか、アルベリク様」
返事などあるはずもない。
それでも、私は墓石の向こうにいる旦那様へ話しかけた。
「ノルデンは少しずつですが、笑い声の絶えぬ領地になってきております」
カイル様がきてから、随分と変わった。
荒れ果てていた畑には、再び作物が育っている。
長く閉ざされていた店にも、ひとつ、またひとつと明かりが戻った。
新しい工房では、職を失っていた者たちが働いている。
誰も住まなくなっていた家も修繕され、よそからやってきた家族が暮らし始めた。
朝になれば、人々が仕事へ向かう。
夕方になれば、家へ帰っていく。
そんな当たり前の光景を、私は毎日目にするようになった。
「旦那様が、あれほど望んでおられた景色です」
――金が、足りない。
晩年、旦那様は何度そう口になさっただろう。
机いっぱいに書類を広げ、夜が明けても気づかずに計算を続けておられた。
王都へ何度も嘆願書を送り、水路の修繕を願い、領民の税を減らし――。
それでも、どうにもならなかった。
最後まで、ご自分を責めておられた。
もっと自分に力があれば。
もっと金があれば。
もっと早く手を打てていれば、と。
「……旦那様」
声が、少し震えた。
「あなた様が守ろうとなさったノルデンは、なくなってなどおりません」
墓石にそっと手を添える。
「皆、生きております」
市場で笑う者がいる。
畑を耕す者がいる。
新しい仕事を覚えようと、粉まみれになって働く者がいる。
子供たちが走り回っている。
ノルデンは、生きている。
「ですから……」
そこで言葉が途切れた。
いけない。
今日は旦那様に、よい報告をしに来たのだ。
泣くために来たのではない。
そう思ったというのに。
「……あなた様にも、ここにいてほしかった」
一度こぼれた言葉は、もう止められなかった。
「この景色を……あなた様ご自身の目で、見ていただきたかった……」
ぽたり、と墓石に雫が落ちる。
慌てて袖で目元を拭った。
「……歳を取ると、どうにも涙もろくなっていけませんな」
誰に聞かせるでもなく苦笑し、立ち上がる。
そのときだった。
「……おや?」
墓石の脇。
私が花を供えた場所とは反対側に、小さな包みが置かれている。
来たときには気づかなかった。
真新しい紙に、簡素な紐。
手に取ると、まだほんの少しだけ温かい。
私はそっと包みを開いた。
「…………」
中に入っていたのは、一個のパンだった。
丸く焼き上げられた、小さなパン。
見間違えるはずがない。
ノルデンの小麦とルージュ豆から作られ、今では街の者なら誰もが知っている――あのパンだ。
私はしばらく、それを見つめていた。
そして、ようやく気づく。
「……カイル様」
あの方だ。
きっと私より先にここを訪れ、何も言わずに置いていったのだろう。
まったく。
こういうことだけは、妙に気が回るお方なのだから。
私はパンを元の場所へ戻すと、もう一度、墓石の前に膝をついた。
「旦那様」
今度は、不思議と笑うことができた。
「……よい方が、来てくださいましたな」
丘を春の風が吹き抜ける。
その向こうから、また子供たちの笑い声が聞こえてきた。
* * *
――○月○日。
本日もノルデンは晴天。
市場の往来は多く、新工房も順調との報告あり。
旦那様の墓前には、先客が一名。
名は記さぬこととする。
ただし、供え物にあんぱんを選ぶ若者など、この領地には一人しかおらぬ。
今日という日を、私は生涯忘れぬだろう。
そしていつの日か、私が旦那様のもとへ参ったなら。
伝えたいことが、またひとつ増えた。
――ノルデンは、今日も賑やかです




