第27話 光の射す場所へ
翌朝。領主館の地下にある、静かな応急牢。
固い石床に腰を下ろしたローグは、格子越しに差し込む朝の光を死んだような目で見つめていた。
手当てされた身体の痛みが、昨夜の敗北を酷に物語っている。
依頼は失敗した。王都へ戻ることもできず、莫大な報酬も手に入らない。このままここで処刑されるか、あるいは一生牢で腐っていくのか。
……そうなれば、王都で待つ病身の母と、幼い妹たちはどうなる。
冷たい絶望が、じわじわとローグの胸を締め付けていた。
重い足音が階段を降りてくる。
現れたのは、少女——リーザに紅茶のトレイを持たせた少年領主、カイルだった。
「気分はどうだい?」
「……殺し屋を気遣う余裕か。おめでたい頭をしてやがる」
ローグは自嘲気味に吐き捨てた。
だが、カイルは気にした風もなく、持ってきた椅子に座ると、静かにローグを見つめた。その手には、昨日取り上げた父の形見の短剣がある。
「君の素性を調べさせてもらった。……柄の根元に、冒険者ギルドの古い登録刻印が残っていたよ。一晩かけて、その番号を照会させてもらったんだ」
「なっ……!?」
「ローグ。……元・腕利き冒険者、アーノルドの息子だね」
ローグの身体がガタガタと激しく震えた。
父の名。十五歳のあの日、冷たい雨の中で失われた、どこまでも大きく、頼もしかったあの背中の名前。
「……それがどうした。親父は死んだ。俺は家族を食わせるために、人を刺す殺し屋になったんだ。……くだらない同情なら捨ててくれ」
「同情なんてしていないよ。……ただ、君の昔の夢を知った」
カイルは静かな、けれどまっすぐな瞳でローグの目を見つめた。
「『いつか親父みたいな冒険者になって、誰かを守るんだ』……ギルドの幼年登録台帳に、そう書かれていた」
「やめろ……っ! やめてくれ……っ!!」
ローグは耳を塞ぐように両手で頭を抱え込んだ。
捨て去ったはずの夢。家族のために泥を啜り、両手を血で汚して埋めてきたはずの自分の中の『少年』が、カイルの言葉によって無慈悲に暴かれていく。
「君が本当に欲しかったのは、人を殺して得る血塗られた金じゃない。……家族を腹いっぱい食わせて、温かい場所で笑わせることだったんじゃないのかい?」
「だったら何だ!!」
ローグが爆発したように叫んだ。
「俺の手はもう汚れてんだよ! 人を刺し、暗闇で生きてきた人殺しなんだよ! 今更……今更どうしろってんだ! 守りたかった家族にだって、まともな薬一つ買ってやれねぇで……俺の人生はここで終わりなんだよ!!」
壁に頭を打ち付けるようにして絶叫するローグ。
沈黙が降る中、カイルは静かに立ち上がると、鍵を開けて牢の中へと足を踏み入れた。そして、手にした短剣をローグの足元へ静かに置く。
「この街——ノルデンは今、急激に大きくなっている。だが、治安を守る組織がない。人が増えれば揉め事も増える。力なき領民や、子どもたちが巻き込まれる事故も起きる」
「……何が言いたい」
「人を集め、訓練し、街を守る治安組織を作りたい。……その立ち上げを、君に任せたいんだ」
「は……?」
ローグは耳を疑った。自分の命を狙いに来た刺客に向かって、この少年は何を言っているのだ。
「……お待ちくださいませ、カイル様」
静かな、だが決して譲るつもりのない固い声が響いた。
それまで静かに控えていたリーザが、一歩前へ出る。声は穏やかだったが、カイルの前に立ちはだかるその姿からは、一歩も退くつもりがない覚悟が伝わってきた。
「この者は、昨夜カイル様のお命を奪おうとした暗殺者です。……わたくしは、そのご判断に賛成できません。危険すぎます」
「勿論、いきなり野放しにするつもりはないよ、リーザ。当面は君や警備兵の厳重な監視下に置く。……だがね、ローグ」
カイルは拒絶するリーザを優しく宥めつつ、呆然とするローグに向き直った。
「……待て。俺を……警備隊の責任者にするだと? 昨日お前を殺そうとした俺をか!?」
「だからこそ、だよ」
カイルの口元に、どこか食えない、経営者のような薄い笑みが浮かんだ。
「君にはこの街に借りがある。僕の命を狙ったという、ずいぶん大きな借りがね。……ただ処刑して死んで逃げるなんて、絶対に許さない。働いて返してもらう。僕一人の命じゃ、とても返しきれない。一生かけてこの街のために働いてもらうつもりだ」
「……っ!?」
「もちろん報酬は払う。王都の依頼主の倍だ。王都にいる君のお母さんと妹たちも、僕の実家——ヴァルハイト侯爵家にも手を回して、極秘裏に安全なルートでこのノルデンへ呼び寄せる。日当たりのいい家と、腕のいい医者も用意しよう。……だから、もう暗闇で人を刺す必要はない」
死による免罪ではなく、負債としての労働と貢献。
カイルの提示した条件は、ローグの魂を根本から揺さぶった。
「……俺みたいな人殺しに、何を守れっていうんだ」
短く、自虐的な言葉がローグの口から漏れた。
自分の、血と泥に汚れた手のひらを見つめる。
(守れる……? 俺の手が? 俺みたいな、人殺しが……?)
「少なくとも僕は、君なら任せられると思っているよ。……何より君は、その短剣を、父親の形見をずっと大切に手入れして守り抜いてきたじゃないか」
カイルの視線が、足元に置かれた古い短剣に向けられる。
かつて父が誰かを守るために握り、貧しさと絶望の中で人を殺す道具へと成り果てていた刃。
「君の手は、人を殺すための手じゃない。大切なものを命がけで守ってきた手だ」
「……っ!」
ローグの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
十五歳のあの日、冷たい雨の中で止まってしまった自分の時間が、少年の言葉によって、音を立てて動き出していく。
ローグはおずおずと手を伸ばした。
震える手。だが今度は一切の迷いなく、カイルの差し出した手を強く、固く握り返した。
「……返してやる……っ! お前の命の借りも……俺の人生の借りも……!!」
握りしめられた手と手の温もり。
床に横たわる父の短剣に、窓からの明るい朝光が差し込み、眩しく反照した。
暗闇を穿ち、光の中へ。




