第26話 静かな制圧
「——っ!?」
刃が落ちてくるその一瞬前。
理由なんて分からなかった。ただ、昼間に隣で見たリーザの拳よりも、ずっと冷たく不吉な「死」の気配が、眠っていた僕の身体を叩き起こした。
『考えてから避けていては遅いですわ! 身体の反射で動くのです!』
脳裏に蘇るリーザの厳しい声。
僕は思考よりも早く、ベッドの上でがむしゃらに身体を横へ転がした!
ドスッ!!
「っ……!?」
ほんの一瞬前まで胸があった場所——木製のベッドのフレームへ、短剣が深々と突き刺さっていた。切り裂かれた羽毛布団から、白い羽がフワリと夜空に舞う。
冷や汗が一気に噴き出し、血が引き絞られる。
(り、リーザとの訓練がなかったら……今の一撃で死んでた……っ!!)
「……避けられた、だと?」
暗闇の中で、低く冷ややかな声が落ちた。
ローグの瞳には動揺すらない。刺殺に失敗したと理解した瞬間、一切の躊躇なく突き刺さった短剣を力任せに引き抜き、間髪入れずに二撃目の横薙ぎを繰り出してきた!
ヒュッ! と風を切り裂く刃が、僕の首筋へ迫る。
「ま、待ってくれ! 誰の差し金だ、話を——っ!」
「黙れ」
冷酷な一言とともに、容赦ない三撃目の突きが繰り出される!
相手は筋金入りの殺し屋だ。一撃を奇跡的に避けただけの僕に、二度目の幸運など訪れるはずもない。背中が壁にぶつかり、絶体絶命のその瞬間。
すっと、横から滑り込んできた「白く細い手首」が、ローグの刃を振るう腕を真横から掴んだ。
「——そこまでですわ」
「な……っ!?」
ローグの動きが完全に止まった。
振り返った彼の視界に映ったのは、寝間着の上に薄いガウンを羽織り、乱れひとつない動作で佇む少女——リーザだった。
「その手を、カイルから離してくださいませ」
静かな、だが一切の温度を含まない冷徹な声。
ローグは即座に腕を振り払おうと力を込めた。……しかし、びくともしない。まるで巨大な万力に嵌め込まれたかのように、少女の細い指先が一切の動きを許さなかった。
(しまった……! 身体強化魔法……!!)
「チッ……!」
殺し屋の鋭い本能で危険を察知したローグは、瞬時に左手で逆手に短剣を持ち替え、リーザの首筋へ閃光のような一閃を繰り出した。
だが、リーザは眉ひとつ動かさない。
「……忠告しましたわよ」
次の瞬間。
ドンッ!! と、骨を揺らすような短い衝撃音が室内に響いた。
リーザが踏み込んだわずかな重心移動。そのままローグの腕の支点を一瞬で奪い、美しく無駄のない円運動でその巨体を床へと叩きつけたのだ。
「ガハッ……!?」
肺の中の空気が吐き出され、激しい痛みに目が眩むローグ。
間髪入れず、彼の首元にはリーザの膝が寸止めで添えられ、右腕は逃げ場のない形に関節を固められていた。
叫ぶでもなく、声を荒らげるでもない。
完璧な身体操作と【身体強化魔法】による、静謐で圧倒的な制圧。
「動かないでください。次に暴れたら、腕の骨を折ります」
紫色の瞳を静かに細め、完璧な令嬢の立ち振る舞いのまま見下ろしてくるリーザ。
ローグは冷たい床に顔を押し付けられたまま、痛む胸を押さえて荒い息を吐いた。
制圧完了——完全な敗北だった。
* * *
「ふぅ……助かったよ、リーザ。ありがとう」
僕は乱れた息を整えながら、シーツを羽織って立ち上がった。
部屋の灯りがつけられ、床に拘束された暗殺者の青年の姿が露わになる。
年は——僕と同じか、少し上くらいだろうか。
僕は彼に近づくと、その前にゆっくりとしゃがみ込んだ。
「さて……誰に頼まれて僕の命を狙いに来たのかな?」
「………………」
青年はガチリと奥歯を食いしばり、固く口を閉ざして顔を背けた。
「……殺せ。殺し屋がしくじったんだ。好きにしろ」
「それは質問の答えになっていないな」
僕はため息をつくと、床に転がっていた彼の短剣を静かに拾い上げた。
使い込まれているが、錆ひとつなく丁寧に研がれている。……手入れが行き届いていること自体は、道具を大切にする腕のいい殺し屋なら別段珍しくもないかもしれない。
だが、僕が刃先へ手を伸ばした、その瞬間だった。
「触るな……! その短剣に触るなッ!!」
「……っ!?」
冷酷に死を覚悟していたはずの青年の表情が一変した。
見開かれた瞳に激しい感情が走り、拘束された身体を我を忘れたように暴れさせる。
(……この反応は、違うな)
己の命が握られている状況でも眉ひとつ動かさなかった男が、短剣に触れられただけでこれほど激昂する。ただの暗殺の道具に対する執着ではない。
「……話す気になったかい?」
僕が静かに問いかけると、青年は血が滲むほど唇を噛み締め、掠れた声で吐き捨てた。
「……触るなと言っている。それは……親父の、形見だ……っ」
「……父親の、形見……」
僕は床に落ちていた手作りのような革の鞘を拾い上げると、短剣を静かに納めた。そして、それをそのままリーザへと預ける。
(……少なくとも、ただ金で機械的に人を殺すだけの冷血漢ではなさそうだ)
自分自身の命よりも、親父の形見を侮辱されることを拒んだ男。
ならば——まだ、話を聞く余地はあるはずだ。
「今夜はここまでにしておこう。リーザ、彼を地下の施錠できる部屋へ。怪我の応急手当も頼むよ」
「……かしこまりましたわ、カイル様」
引き立てられていく青年の背中を見送りながら、僕は壊れたベッドのフレームに視線を向けた。深々と刻まれた一撃の痕跡。
(……腕は確かだ。それだけは、嫌というほど分かった)
僕はふぅと一つ息を吐き、静まり返った夜の部屋で呟いた。
(さて。この男はいったい、何者なんだろうな)




