第24話 ノルデン公認に
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った夜の領主館。
執務室の窓からは、やわらかな月光と時折そよぐ春の夜風が差し込んでいた。
「——どうぞ、温かいうちに召し上がってください」
リーザが静かな手つきでトレイからカップを下ろし、香ばしい湯気が立ち上る紅茶をそれぞれの前に並べていく。
革張りのソファには、頑固親父のハンスさんと、昼間に移動販売の台車を曳いていた青年が向かい合って座っていた。
青年の名は、レイン。僕より少し年上、二十代半ばといったところだろうか。昼間の荒々しい態度は影を潜め、どこか身を小さくして縮こまっている。
「さて……」
僕がデスクから歩み寄ると、ハンスさんは腕組みをしたまま不機嫌そうに鼻を鳴らし、レインは固く肩をこわばらせた。
「レイン、改めて聞かせてほしい。なぜ、こんなことをしたんだい?」
「……遠くの連中から頼まれたのは、本当です」
レインは目の前のカップを見つめたまま、絞り出すような声で言った。
「工事現場の作業員や、街外れの畑で働く奴らは、昼飯時に街のパン屋まで戻ってくる時間がないんです。だから……なんとか届けられないかって考えました」
「だからってよ、うちの店の商品を勝手に真似して売り歩くのは筋が違うだろ」
ハンスさんが低い声で口を挟む。だが、昼間のような爆発的な怒りはすでに失われていた。レインは頭をかきながら、申し訳なさそうに視線を落とした。
「……そこは、本当にすいませんでした。ハンスさん」
「ふん……」
「ところで、レイン。あの『台車』なんだが……ずいぶん年季が入っていたね。どこで手に入れたんだい?」
僕が問いかけると、レインは一瞬驚いたように顔を上げ、やがて遠い目をして膝の上で拳を握りしめた。
「あれは……昔、親父が花を売るのに使っていたものです。ずっと物置きの奥に眠っていたのを、引っ張り出してきたんです」
「お父さんの……?」
「はい。でも、街が貧しくなって誰も花を買う余裕がなくなって……商売をやめざるを得なくなった。その親父も、数年前の流行病で亡くなりました」
俯くレインの言葉に、執務室の中に重い沈黙が降りた。
ハンスさんも腕組みを解き、複雑な表情でレインを見つめている。
「……事情は分かった。だがよ、カイル様……」
ハンスさんが言いかけたその時、僕は二人を見つめてしっかりと頷いた。
「分かった。移動販売を、認めよう」
「えっ……!? カイル様!?」
「なっ、なぜです!? 認めたら、他所の奴らにまで真似されちまいますよ!」
驚いて立ち上がりかける二人に、僕は落ち着かせるように手をかざした。
「ただし、仕組みを作ろう。ハンスさんの技術と利益を守り、レインが安心して働ける仕組みだ」
「仕組み……?」
「ハンスさん、レインに商品を『買い取らせる』のではなく、『委託販売』にするんだ。ハンスさんの店から商品を預かって持ち出し、決められた価格で売る。売れた数に応じて、一定割合の取り分をレインに支払う形にする」
ハンスさんが太い指で顎を擦った。
「なるほど……。なら、元手のないこの小僧でもすぐに始められるってわけか。だがカイル様、売れ残ったらどうするんです? パンは傷み物だ」
「もちろん、売れ残りまでハンスさんに負担させるわけにはいかない。だから帳簿を作ろう。毎日何個持ち出し、どこで何個売れたかを正確に記録するんだ」
僕は紙に簡単な表を書きながら続ける。
「最初は少量から始める。売れ残らない安全な数で試して、工事現場や開墾地の需要を数字で確認しながら、少しずつ持ち出す数を増やしていくんだ。いきなり大きな商売にしようとしなくていい。まず台車一台、この街の現実的な需要に合わせて育てていこう」
ハンスさんは目を見開き、感心したように深く息を吐いた。
「……なるほど。それなら店にとってもノーリスクで遠くの客にパンが売れる。売れ残りの損も最小限で済むってわけだ」
「レイン、君はどうだい?」
「断る理由なんてありません……! 俺、元手も何もないのに、こんなに良くしてもらえるなんて……」
「それともう一つ」
僕はデスクの引き出しを開け、重厚な金属の光沢を放つノルデン領主家の紋章プレートを取り出してテーブルに置いた。
「これを、君の荷台につけてほしい。僕が認めた『公認移動販売』の証だ。これがあれば、他所から来た人間が勝手に真似して粗悪品を売り歩くことも防げる」
「俺の荷台に……領主様の紋章を……」
レインは震える手でそのプレートを見つめた。
ハンスさんは豪快に笑い声を上げると、立ち上がってレインの背中をバシッと叩いた。
「がはは! よかったな小僧! なら……よろしく頼むぜ、レイン! うちの自慢のパン、しっかり売り裁いてこい!」
「はい! がんばって売ります、ハンスさん!」
がっちりと固い握手を交わす二人。
昼間のいがみ合いが嘘のように、二人の間には新たな絆が芽生えていた。
だが——僕の意識は、そこでは終わっていなかった。
「ところでレイン。昼間に君の荷台を見ていて、ずっと気になっていたことがあってね」
「はい? なんでしょう?」
「あの台車、車輪の軸が歪んでいて、手押し部分の位置も低すぎる。……工房の鍛冶職人に頼んで、車輪の軸を補強しよう。それと、荷台と車軸の間に、薄い鋼を幾重にも重ねた『バネ』を噛ませるんだ。そうすれば石畳や悪路の凹凸をやわらげて、運ぶパンも潰れなくなる」
「えっ!? い、いえっ! そんな大掛かりな修繕、俺には払えるような金はありません……!」
慌てて手を振るレインに、僕はにっこりと微笑みかけた。
「費用はこちらで出すよ。工房にも仕事を頼みたかったところなんだ」
「え……?」
「君の台車が直れば君が助かる。職人には仕事が入る。そして遠くで働く人たちにはパンが届く。だったら、領主館が金を出す意味は十分あるだろ?
なにせ公認第一号だからね。……それに」
僕はそっと歩み寄り、レインの手を包み込むように取った。
彼のてのひらは、無理な姿勢で重い台車を曳き続けたせいで、皮がベロリと剥け、真っ赤に腫れ上がっていた。
「そうやって道具を良くすれば、君の身体の負担も減るだろう? 働く人が身体を壊してしまっては、何のための街の復興か分からないからね」
「あ……」
自分の手元と僕の顔を見比べたレインの瞳に、見る見るうちに大粒の涙が溢れていった。
「あ……ありがとうございます……! カイル様……! ありがとうございます……っ!」
膝をついて涙を拭うレインの肩を優しく支えながら、僕はリーザと視線を交わした。リーザもまた、誇らしげで温かな眼差しを僕に向けてくれている。
かつて貧しさの中で花が売れなくなり、静かに止まってしまったお父さんの花売り台車。
時を経て、その車輪は今、鍛冶職人の手によって強く、優しく生まれ変わり——命を繋ぐあたたかなパンを載せて、再びこのノルデンの街を走り出すのだ。
(一つずつ、整えていこう)
人が増えれば揉め事も起きる。だが、それは街が生き返った証拠だ。
数字の成長だけを追うのではなく、そこで生きる人々の手が傷つかない仕組みを、僕はこの街に作っていく。




