第23話 新たな問題
「リーザ、僕は——」
重なった手のひらから、じんわりと熱が伝わってくる。
あと少しだけ勇気を出せば、ずっと胸の奥に引っかかっていたものを言葉にできる。
僕は小さく息を吸った。
「カ、カイル様ぁぁぁ——っ!」
回廊の向こうから、台無しな大声が響いた。
「ひゃいっ……!」
「うわっ!?」
僕とリーザは同時に跳びのいた。
気づけば長いベンチの右端に僕、左端にリーザ。間には大人がふたり座れるほどの不自然な空白ができている。
「カイル様! 大変でございます!」
庭園へ躍り出てきたのは、老執事のセムラだった。いつもなら皺ひとつない上着の胸元が乱れ、額には汗まで浮いている。
「な、なんだいセムラ。そんなに慌てて」
声が裏返った。まずい、と心の中で呟きながら誤魔化すように二度咳払いする。
横目を向けると、リーザは耳まで真っ赤にして足元の花壇を凝視していた。そこには何の変哲もない雑草が映えているだけだ。
「も、申し訳ございません! ですが、それどころではないのです!」
「……何があった?」
セムラの引きつった顔を見た瞬間、頭に上っていた血が一気に引いた。
「中央広場で揉め事です! 頑固親父のハンス殿と、他領の行商人が言い争いになり……止めに入った者まで巻き込まれて収まりがつきません!」
「怪我人は?」
「今のところは。ですが、野次馬が集まりすぎて、警備の者だけでは手が回りませぬ!」
「分かった。すぐ行く」
立ち上がる。
「リーザ」
「は、はいっ!」
返事が妙に固い。一瞬だけ視線が交差し、またお互い反射的に逸らした。
……続きは、後だ。帰ってきてから考えよう。
僕たちはセムラを先頭に領主館を飛び出した。
広場へ近づくにつれ、沿道の人口密度が増していく。
すれ違う領民たちの会話を拾いながら、僕は走りつつ周囲に目を配った。
見慣れない荷馬車が三台。紋章をあしらった布をかぶせた商隊が宿屋前に陣取り、露店には旅装の冒険者たちがたむろしている。
少し前まで、この通りは日中でも人影がまばらで、静まり返っていたはずだった。
人が来ている。
ノルデンに、人とお金が戻ってきているのだ。
「ふざけるな! うちのアイデアを真似するなんて汚ねえぞ!」
「ぐ……っ! 真似なんかしてない! 俺はただ、遠くの作業現場までクッキーとミルクを届けてるだけだ! 街まで買いに来られない奴らに売って何が悪い!」
泥を吐き捨てるような罵声が聞こえた。
広場の一角に、人垣ができている。
木箱が叩き割られ、地面にクッキーや焼き菓子が散乱していた。その中央で、顔を真っ赤にしたハンスさんと、大きな荷台に屋根を取り付けた手作りの「台車」を曳く若い行商人が、互いの胸ぐらを掴み合っている。
「そこまでだ!」
僕が声を張り上げると、何人かが一斉に振り返った。
「領主様だ!」
「カイル様が来たぞ!」
潮が引くように人垣が割れる。
僕は二人の間に割り込み、静かに手を挙げた。
「二人とも、まず手を離してくれ。事情を聞こう」
互いに忌々しそうに視線を外しながら、胸ぐらを離す二人。
ハンスさんが荒い息を吐きながら叫んだ。
「カイル様! こいつがうちのパン屋で出した『クッキーとミルクのセット』をそっくりそのまま真似して、移動販売車で売り歩いてやがったんです! うちの客を横取りする気だ!」
「言い訳じゃねえ、俺は遠くの工事現場の奴らに頼まれて……!」
二人の言い分を聞きながら、僕の視線は行商人の曳いてきた「手作りの台車」に注がれていた。
(……なるほど、そういうことか!)
頭の中で、雷が落ちたような衝撃が走る。
『移動販売』。
街の中心部の露店や店舗で売ることしか頭になかった僕に対して、広い領地内を巡回して商品を届けるという発想。
僕が教えたわけでも、前世の知見を持ち込んだわけでもない。
領民たちが、自分たちの手で新しいビジネスの形を生み出したのだ。
(……僕が考えたんじゃない。彼らが自分で思いついたんだ)
その事実が、胸の奥を熱くした。ノルデンはもう、僕が引っ張るだけの街じゃない。自分たちでアイデアを生み出し、走り始めている。
だが——同時に、冷や汗が背中を伝った。
周囲を見渡す。
怒号を飛ばす商人、野次馬として集まった冒険者、荷馬車を避ける通行人、右往左往するだけで手が出せない数少ない領主館の警備兵。
今までのノルデンなら、こんな歪みは起きなかった。
起きようはずもない。争うほどの人も、物も、お金も、ここには存在しなかったのだから。
「二人とも、散らばった商品は僕が責任を持って買い取る。今日のところは引き揚げてくれ。明日、改めて領主館で二人と話がしたい。お互いにとって、もっと良い方法を提案するから」
ハンスさんはまだ言いたげに口を開いたが、やがて大きく息を吐いた。
「……カイル様がそう言うなら」
行商人も渋い顔のまま、それ以上は食い下がらなかった。
ふたりが散らばった商品を拾い集め、引き揚げていくのを見送りながら、僕は周囲に散らばる雑多な熱気を見つめて思考をめぐらせた。
(人が増えれば、揉め事も増える。今までみたいな手すきの巡察だけじゃ、もう追いつかないな)
(専任の警備組織が必要だ。それと商売のルールも。移動販売だって、禁止して潰すんじゃない。きちんと仕組みにして組織に組み込んでしまえばいいんだ)
——だから。
広場を見下ろす時計塔の屋根瓦の隙間に、一人の青年が潜んでいたことには気づかなかった。
黒い髪。煤けた外套。
青年——ローグは、瓦の陰から伏せた状態でじっと僕の動向を目で追っていた。
「……あれが、カイルか」
ローグの手が、腰の短剣の柄へ吸い寄せられるように伸びる。
依頼書には『辺境の愚か者』『運だけで成り上がった小僧』と書かれていた。殺せば、それで終わる仕事だと思っていた。
だが、目の前の男は違った。
力ずくで黙らせるでもない。
かといって、その場しのぎでどちらか一方に頭を下げさせるでもない。
明日、もう一度話す。
ただそれだけで、あれほど荒れていた二人が引き下がった。
(……妙な領主だ)
ほんの少し、胸の中に小さな引っかかりが生まれる。
ローグは短剣からゆっくりと手を離すと、深めにフードをかぶり直した。
まだだ。間合いを詰める隙がない。
だが——機会は必ず来る。
「……ずいぶん、人に囲まれてる領主様だな」
吐き捨てた刺さるような言葉は、広場に残るざわめきの中に深く呑み込まれて消えた。




