第22話 日常の一幕
ある昼下がり。
領主館の裏手にある小さな庭園で、僕は珍しく激しい運動に汗を流していた。
服装は、動きやすい綿のシャツに細身のズボンという軽装。
対峙しているのは、同じく動きやすい簡素なドレス姿のリーザだ。
「——そこですわ、カイル様!」
「うわっ……!?」
リーザがひらりと身を翻した瞬間、風を切り裂くような速度で可憐な拳がカイルの胸元へ迫る。
カイルは咄嗟に腕を交差させて受け止めたものの、ズドオン! と重戦車に衝突されたかのような衝撃が腕を襲い、そのまま後ろへと弾き飛ばされた。
「ぐっ……!? 痛たたた……」
尻餅をついた僕は、痺れた腕を押さえながら思わず苦笑いを浮かべた。
「つ、強いな……リーザは」
「ふふ、大丈夫ですか? 手加減はしたつもりだったのですけれど……」
リーザは悪戯っぽく微笑みながら、カイルへすっと手を差し伸べた。
その華奢で真っ白な手からは想像もつかないほどの腕力だ。カイルは彼女の手を借りて立ち上がりながら、感心したように息を吐く。
「……なるほどね。これが身体強化魔法の真髄か……」
「ええ。あまり人前で見せるようなものでもありませんけれど……」
「思い返せば、ノルデンに来たばかりの頃もすごかったよね。畑仕事の最中、土の中に埋まってた巨大な岩みたいな塊にぶつかって、農機具の刃が欠けそうになった時さ」
「あっ……あの時のお話ですの……?」
リーザが少し気まずそうに頬を染める。
カイルの頭には、当時の光景が今でも鮮明に焼き付いていた。
開墾の最中、鍬の刃が地中に埋まった大岩へぶつかったことがあった。掘り返してみれば、大人の男が数人がかりでも動かせそうにないほどの巨岩だった。その時、リーザが「わたくしにお任せください!」と腕まくりをして前に出たのだ。
そして——可憐な掛け声とともに放たれた一撃が、その巨大な塊を『ドカァン!』と跡形もなく粉砕してみせたのだった。
「あの時は本気で目を疑ったよ……。でも、だからこそあの過酷な開墾作業も難なくこなせていたんだね。納得だよ」
「はい!」
リーザは気を取り直したように、誇らしげに胸を張った。
訓練を終えた二人は、庭園のベンチに並んで腰を下ろした。
リーザは汗を拭うと、皿に盛られた焼きたての『ルージュ・クッキー』を一つ手に取り、サクッと可愛らしく口に運ぶ。
サクサクとした歯ごたえと甘みを味わいながら、リーザはどこか遠くを見るような目で、ぽつりと語り始めた。
「……私の実家の周りでは、このスキルのせいで、男性からは敬遠されがちだったんです。『可愛げがない』とか、『男より強い女なんて怖くて娶れない』とか……」
クッキーをかじるリーザの横顔に、少しだけ寂しげな影が落ちる。
「でも、カイル様だけは——違いました。私の力を気味悪がることもなく、当たり前のように感謝して、頼りにしてくださいました……」
「だって、すごい力じゃないか。怖がる理由なんてあるのかい?」
僕があっけらかんと、あまりにも素直にそう返すと、リーザは目を見張り、それから嬉しそうに胸の前で手をギュッと握りしめた。
「ふふ……本当に、カイル様は……。だから、こうしてカイル様のお力になれて……本当に嬉しかったんです……」
胸の奥からの言葉に、リーザの頬がかすかに朱に染まる。
僕はそんな彼女の健気な姿に胸を打たれつつ、前世の長い人生経験も相まって、ごく自然に浮かんだ未来の軽口を口にした。
「はは……これじゃあ、将来もし夫婦喧嘩になったら、僕には全く勝ち目がないなぁ」
冗談のつもりで、ごく当たり前の未来として言った言葉だった。
だが、16歳の少女であるリーザにとって、そのインパクトは絶大だった。
「ふ……ふふっ……!? ふ、夫婦……っ!?」
「え?」
「だ、だって、カイル様……! 私たち、まだ『婚約者』ですのよ……!? 夫婦だなんて、そんな……っ!」
リーザの顔が一瞬で熟したルージュ豆のように真っ赤に染まる。
パタパタと両手で真っ赤な顔をあおぐリーザを見て、カイルも遅れて自分の発言が与えた影響に気づき、慌てて咳払いをした。
(……そうだ。僕たちは確かに婚約者だ)
カイルは落ち着こうと小さく息を呑む。
だが、ノルデンへ来てからの半年間、そんなことを意識する暇すらなかった。
飢えをどうする。冬をどう越す。明日の仕事をどう作る。
気がつけば僕は、リーザが隣にいてくれることを、すっかり当たり前のように思っていた。
(……でも、当たり前なんかじゃないんだ)
王都の家格や都合ではなく、彼女は僕という人間を信じて、全てを捨ててここまでついてきてくれたのだ。
「領地経営の相棒」として感謝するだけで済ませていいはずがない。ひとりの女性として、ちゃんと向き合わなければ。
静寂が二人を包み込む。
風が吹き抜け、リーザの銀髪がふわりとなびいた。
カイルは意を決すると、うつむいたまま膝の上に置かれているリーザの真っ白な手に、そっと自分の手を重ねた。
「っ……カイル様……」
リーザの肩が小さく跳ねる。
けれど、彼女はその手を引きはしなかった。
重なった手のひらから、お互いの熱と鼓動が伝わってくる。
ほんの少しだけ、二人の距離が近づいた。
「リーザ、僕は——」
カイルが言葉を紡ごうとした——まさに、その時だった。
* * *
庭園の遠く離れた外壁の影。
視線すら悟らせない完璧な隠密姿勢で、黒い外套の青年——ローグは、その光景を冷ややかに見下ろしていた。
(……仲のいいことだ。まさか側近の女が【身体強化魔法】の使い手とはな)
ローグは腰の短剣にそっと指を滑らせる。
(あの女の反応速度と間合い……護衛としては厄介だ。だが、二人きりになる瞬間はいくらでもある。排除は可能だ)
暗殺者としての冷徹な計算だけを巡らせ、二人の甘い雰囲気など欠片も気に留めることなく、ローグは再び街の観察へと戻るべく、風のように気配を消した




