第21話 春の知らせと迫る影
厳しい冬を乗り越え、ノルデンにもようやく遅い春が訪れていた。
雪解け水が街の水路を勢いよく駆け抜け、冷たかった風の中にほんのりと芽吹く草木の匂いが混じる。
僕が領主としてこの地にやってきてから、半年以上の月日が流れていた。
かつて干からび、人影もまばらだった中央広場は、朝から活気に満ちあふれている。
「へい! 焼き立てのルージュ・クッキーと温かいギヤミルクのセットだよ!」
「おじさん、クッキー二つ頂戴!」
「うちの店にもルージュ豆のスープを出しておくれ!」
通りには威勢の良い声が飛び交い、行き交う人々は誰もが晴れやかな表情を浮かべ、賑やかに買い物を楽しんでいた。
街を巡察していた僕は、その光景を眺めながら静かに息を吐いた。
——この冬、ノルデンでは餓死者が一人も出なかった。
それが何より、僕には嬉しかった。
前世の知識と【魔石生成】の力で必死に資金を回し、職を作り、しっかり給料を支払った。
あの『ルージュ・クッキー』が大ヒットし、今やノルデンの名物として領外からも商人が買い付けに来るほどの大目玉商品となった。
だが、クッキーの売り上げや儲けなどよりも価値があるのは、領民たちが誰一人倒れることなく、笑顔で春を迎えられたという事実だ。
(よし……基盤はできた。この調子なら、いよいよ本命の『あんぱん』の量産と全土展開も……)
将来の構想に胸を躍らせていた、その時だった。
「きゃっ!? 泥棒! 泥棒よーッ!」
突然、露店から女性の金切り声が響き渡った。
次の瞬間、僕の脇をすさまじい風を切って突っ走る影があった。
薄汚れた布を被った男が、女性からひったくった売上金の袋を抱え、必死の形相で人ごみを押し分けて逃走していく。
「待てーっ!」
僕が叫んで追おうとしたが、男の足は異常に速い。
「くっ……取り逃がすか……!?」
僕が舌打ちした、まさにその瞬間だった。
逃走する男の死角——街角の暗がりから、ふわりと一筋の「黒い影」が滑り出た。
「なっ——!?」
逃げていた男が驚愕の声を上げる間すらなかった。
影のように現れた男は、すれ違いざまに足を一歩踏み出し、男の膝裏へと正確に足を払った。
ドスン! と鈍い音が響き、ひったくり犯は派手に地面へ突っ伏して転倒する。
「ぐはっ……!?」
転がった男の手から、盗まれた金袋が離れ、空中を舞った。
黒い影は、それを片手で軽々と受け止めると、追いついてきた僕に向かって無造作に放り投げた。
「……ほらよ」
「っと……! あ、ありがとう! 君は——」
僕が礼を言い、名乗ろうとした瞬間、擦り切れた黒い外套を纏った黒髪の青年は、興味なさそうにフッと視線を外した。
「……礼には及ばない。人ごみが邪魔だっただけだ」
低く掠れた声で吐き捨てると、青年は名前を聞く素振りすら見せず、振り返ることもなく人ごみの奥へと歩き去っていく。
僕はその黒い後ろ姿を見送りながら、胸の奥にどこか異様な威圧感を覚えていた。
(ただ者じゃないな……。無駄のない立ち振る舞い。それに、あの冷徹な眼差しは一体……?)
* * *
人混みへ紛れたところで、黒髪の青年——ローグは一度だけ足を止めた。
振り返らない。その必要はなかった。
(……カイル・フォン・ヴァルハイト)
標的の顔は、王都を出る前から知っている。
十六歳。落ちこぼれ。辺境へ追いやられた、侯爵家の次男。
だが——ローグは、先ほど見た光景を思い返した。
楽しそうに笑う子供たち。
客で溢れかえる賑やかな露店。
街中に漂う、焼き菓子の甘く香ばしい匂い。
王都で依頼主から聞かされていた「死にかけの絶望的な辺境」とは、ずいぶん様子が違っていた。
「…………」
まあいい。街の構造、警備の穴、そして標的の行動パターンを調べる。
殺すのは、それからでも遅くはない。
薄汚れた黒い外套をなびかせ、ローグは静かに人混みの深みへと消えていった。




