第20話 ホット・ギヤミルクと、落ちてきた影
翌朝。ノルデンの街は、冷たい霧に包まれていた。
「寒さで痺れそうですわ……」
銀髪の毛先を白い息で揺らしながら、リーザが肩をすくめる。
寒冷地であるノルデンの朝は早い。そして何より、足元から底冷えした。
「はい、リーザ」
僕は羽織っていた上着を脱ぎ、彼女の肩へかけた。
「カ、カイル様!? でも、それではカイル様が寒いでしょう?」
「僕は平気さ。それより、リーザの身体も大事だからね」
「か、身体が……大事……」
「? そうだけど」
なぜかリーザは上着の襟元をぎゅっと握り、真っ赤になって俯いてしまった。
「……カイル様は、そういうところですわ」
「何が?」
「なんでもありませんっ」
……よく分からない。
首をかしげながら、僕は目的の場所へ足を速めた。
僕たちが足を運んだのは、街の外れにある小さな牧場だった。
出迎えてくれたのは、身丈の低い頑固そうな老酪農家だ。
「……領主様が、うちのギヤミルクを買い叩きに来たのか?」
「いいや。むしろ逆だよ。毎日、まとまった量を買いたい」
「……毎日?」
老人の目つきが変わった。
「代金もその都度払う。できるだけ新鮮で、濃いものが欲しい」
「そいつは……ありがてえ話だが」
なぜか老人は、すぐには喜ばなかった。
「何か問題が?」
「……毎日、同じ量を用意できるとは約束できねえ」
「どうして?」
「売れねえからだよ」
老人は吐き捨てるように言った。
「昔は宿屋も食堂も、もっと買ってくれた。だが今じゃ人が減って、店も潰れた。冬場なんざ特にひでえ。搾ったところで売れ残る」
「…………」
「だから乳の出るギヤを増やせねえ。餌代だってかかるからな。余った分は家で使うか、家畜に回す。それでも駄目なら捨てるしかねえ」
老人は悔しそうに牛舎を見た。
「……胸は痛むが、金にならねえものを作り続けりゃ、こっちが先に潰れちまう」
需要がないから、生産規模を縮小せざるを得ない。
「分かった。なら、なおさら僕の提案を受けてほし
い」
僕は老人の目をまっすぐに見つめた。
「毎日、一定量をパン工房へ納品してほしい。代金は毎朝、確実に支払うよ。君が『明日売れるかどうか』を心配する必要はない」
「……本当だな? 嘘だったら承知しねえぞ」
「約束するよ」
◇
工房へと戻り、さっそく準備に取りかかる。
「カイル様、このギヤミルクをどうするんで?」
店主のハンスさんが桶を覗き込む。
「ただ温めるんじゃない。鍋にミルクを入れ、ほんの少しの砂糖と、隠し味にほんのわずかな塩を加えてじっくり温めるんだ」
「塩、ですかい?」
「そう。塩気がミルクのコクと甘みを引き立てる。そして——焼き立てのルージュ・クッキーとセットで売り出すのさ」
昼下がり。
工房の店頭には、香ばしいクッキーの匂いと、甘く温かいミルクの湯気が立ち上っていた。
「へいらっしゃい! 本日からの新商品、『ホット・ギヤミルクとクッキーのセット』だよ!」
ハンスさんの威勢の良い声に、真っ先に足を止めたのは、寒さに震えながら買い出しに来ていた若い冒険者だった。
「おいおい、クッキーは口の水分が持っていかれるんだよな……。まあいい、そのセットってやつをくれ」
冒険者は銅貨を払い、温かいギヤミルクを一口すする。
「……っ!!」
冒険者の動きが止まった。
「な、なんだこれ……!? ほんのり甘くて、腹の底まで熱が染み渡る……! クッキーをかじって、このミルクで流し込むと最高じゃないか!」
「おい、マジかよ! 俺にもくれ!」
「こっちもセットで頼む!」
瞬く間に、店の前に人集りができた。
冷え切った身体に染み渡る温かいギヤミルクと、甘く香ばしいクッキー。
「喉が渇く」というクッキーの弱点が、温かいミルクを呼び込む最高の強みへと反転した瞬間だった。
「すごい……! クッキーだけじゃなく、ギヤミルクまで飛ぶように売れていきますわ!」
店頭の熱気を見つめながら、リーザが感心したように呟く。
「ふふ、寒冷地だからこその強みだよ。需要と需要を繋ぎ合わせれば、価値は跳ね上がるんだ」
ギヤミルクが売れれば、酪農家の収入が安定する。生産量が増えて余剰が出始めれば、次はバターやチーズといった『乳製品の加工』へ進出できる。
一つひとつの小さな試みが、次の産業の種となっていくのだ。
◇
一方その頃、王都——内務省高官室。
最初の報告を受けたとき、ガルシアは偶然だと切り捨てた。
たまたま天候に恵まれたのかもしれない。たまたま土壌改良がうまくいっただけかもしれない。
一度の豊作なら、あり得る。
だが、それだけでは領地は救えない。
冬が来れば食料が尽きる。金が尽きれば人は雇えない。産業のない辺境では、いずれ行き詰まる。
——そう思っていた。
だが、どうだ。
ガルシアは最新の報告書へ目を落とした。
『ルージュ豆を用いた新商品の製造開始』
『パン工房の拡張』
『失業者の新規雇用』
『旧火守り職人を焼成技術者として雇用』
『ギヤミルクの定期買い取り開始』
『市場への人流、回復傾向』
「…………」
偶然ではない。一度きりでもない。
あの男は、一つの成功を次の成功へ繋げている。
農地を立て直して終わりではない。収穫物を商品へ変え、商品が仕事を生み、その仕事で得た金が再び街へ落ちる。
止まるどころか——。
「……経済が、回り始めている」
認めた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
このままでは、冬を越せない?
違う。このままなら、冬を越えてしまう。
そして冬を一度越えれば、来年は今年より強くなる。
その次は、さらに——。
「……まずい」
ガルシアは立ち上がった。
もはや「いずれ潰れる」と待っている時間はない。
自分が切り捨てた土地が、中央の援助すら受けず、自力で立ち上がろうとしている。
商人の間では見たこともない新商品が評判になり始め、そして何より——事業を動かす金の出所が不鮮明だ。
脳裏に、あの鑑定書が浮かんだ。
『固有能力——魔石生成』
「…………」
もし。もしも、あの能力まで成長しているのだとしたら。
確証を得てからでは遅い。
「——もう、手段を選んでいる余裕はない」
「ローグ」
暗闇が、静かに動いた。
擦り切れた外套を纏った男が、光の下へ姿を現す。
黒髪、鋭い黒の瞳。腰には何度も研ぎ直された一本の短剣。
「……なんだ」
「仕事だ。ノルデンへ行き、カイル・フォン・ヴァルハイトを消せ」
「……報酬は?」
「純魔石を一つ」
「純魔石……?」
ガルシアは机の引き出しから、小さな木箱を取り出した。
蓋を開く。
そこには、濁りひとつない魔石が収められていた。
澄み切った内部には、光に透かさなければ分からないほど小さな番号が刻まれている。
「……これ、本物か?」
「当然だ」
ローグの目の色が変わった。
「これほどの純度なら……」
「換金すれば、お前と家族が一生困らない程度にはなるだろう」
「…………」
母親の薬が買える。
弟や妹に、腹いっぱい食わせてやれる。
もう、明日の金を心配しなくていい。
ローグは木箱へ手を伸ばした。
「前金だ。仕事を終えれば、もう一つ渡そう」
「……分かった」
木箱を外套の奥へしまい込むローグを、ガルシアは黙って見つめていた。
(そうとも)
口元に、ごく薄い笑みが浮かぶ。
(換金できれば、な)
「では行け。カイル・フォン・ヴァルハイトを消せ」
ローグは一礼し、部屋を出ていった。
扉が閉じる。
ガルシアは何も言わなかった。
ただ、空になった木箱の置かれていた場所を指先で一度なぞった。




