第17話 次の一手
夕暮れ時。ノルデンの空が茜色に染まる頃、パン屋の店頭にはまだ名残惜しそうな人だかりができていた。
「え〜? もうないの?」
「すみません! 本日分はすべて売り切れてしまいました!」
「また明日も売るのかい?」
「はい! 明日も朝から焼き上げる予定です!」
「じゃあ、明日朝イチで来るよ」
買い損ねた冒険者はそう言い残し、宿場の方へと去っていった。
「つ、疲れましたわ……」
店じまいを終え、厨房の椅子に崩れ落ちるように座り込んだリーザが額の汗を拭う。
隣では店主——ハンスさんが、信じられないものを見るように空っぽの棚を眺めていた。
「……はは」
やがて、ハンスさんの口から小さな笑い声が漏れた。
「売れちまったなあ……全部」
その言葉を聞いた瞬間だった。
胸の奥から、じわじわと何かが込み上げてきた。
——売れた。
あれほど見向きもされなかったものが。
冷たくなったあんぱんを前に、何が悪かったのかも分からず頭を抱えた僕たちの商品が。
リーザと何度も試して。
ハンスさんに知恵を借りて。
領民たちが汗水を流して育てた小麦とルージュ豆を使って。
ようやく——誰かが金を払って、「また食べたい」と言ってくれた。
(……ああ)
そこでようやく、実感が湧いてきた。
(成功したんだ……)
肩から、ふっと力が抜ける。
(よかった……。本当によかった)
失敗したままでは終わらなかった。
みんなが作ってくれたものを、無駄にせずに済んだ。
僕は思わず、リーザとハンスさんの顔を見た。
リーザは疲れ切った顔で、それでも嬉しそうに笑っている。
ハンスさんも、空になった棚を眺めながら頬を緩ませていた。
その光景を見ていると、胸の奥が少しだけ熱くなった。
——だが。
安堵できたのは、ほんのわずかな間だった。
「いやはや……まさかうちの本業のパンよりも売れるとはな……。カイル様、明日からは人を増やして増産しますか?」
「…………」
増産。
その一言で、さっきまでとは別の計算が頭の中を走り始めた。
(……待てよ)
今日売れた。なら、明日はもっと客が来るかもしれない。
だが窯の数は変わらない。人手も、材料も有限だ。
『売れない問題』を越えた途端、今度は『売れすぎる問題』が待っていた。
僕は一度だけ目を閉じ、それからハンスさんを見た。
「いや、増やさなくていい」
「え?」
「作れる分だけ売るんだ」
僕の言葉に、ハンスさんは驚いて目を丸くした。
「ですが、それでは買えない方が……」
「それでいい。明日も来てもらえばいいんだから」
僕は空っぽになった籠を指した。
「『売り切れました』は謝る言葉じゃない。今の僕たちにとっては、これだけの人が欲しがったという看板になる」
僕たちの目的は、無理な増産で品質を落とすことじゃない。買えなかったという「飢餓感」と「行列」そのものが、街の人々の警戒心を解く最強の宣伝になるのだ。
「……じゃあ、値段を上げるか? これだけ人気なら、倍の値段でも買う奴はいますよ」
「いや。上げない」
僕は即座に首を横に振った。
「なぜだ?」
「僕がやりたいのは、高級菓子を作ることじゃないからね。……旅人が、誰でも気軽に買える食べ物として広めたいんだ」
希少性を利用して需要をコントロールすることと、希少価値をつけて儲けることは全く違う。供給不足を乗り切るために一時的に限定販売をするだけで、僕の最終目的はあくまで『普及』なのだから。
納得したように頷くハンスさんの横で、リーザが心配そうに呟いた。
「ですが……増産はしないとしても、今の材料と設備のままでは、明日以降の仕入れだけでパン屋の資金がパンクしてしまいませんか?」
「ああ。だからこそ——」
僕はポケットから、高純度の『魔石』を取り出し、掌の上でじっと見つめた。
金が足りないなら、作ればいい。
僕の【魔石生成】を使えば、一瞬で莫大な財を成すことができる。僕には、それができる。
——だからこそ、怖いのだ。
前の人生で、金というものが世の中をどれほど大きく動かし、狂わせるのかを嫌というほど見てきた。
便利だからと際限なくばら撒けば、ハイパーインフレを起こし、最後にその代償を払うのは僕ではない。ここで暮らす人々だ。
自前の中央銀行を持っているようなこのチート能力は、一歩間違えればこの領地を滅ぼす劇薬になる。
「……だから、必要な分だけ出す」
「必要な分……ですか?」
「窯を増やす。人を雇う。材料を大量に一括で仕入れる。何にいくら使うか、先に予算を全部決めるんだ。その計画に必要な最低限の分だけ、この魔石を資金に換える」
ただ無計画にお金を流し込むんじゃない。明確な「事業計画」に基づき、生産設備と雇用の創出という『実体経済の拡大』のためだけに資本を投入する。
能力に振り回されるのではなく、手綱を引いてして経済のエンジンを回すのだ。
(よし……これで供給体制を整えれば、クッキーの成功を足がかりに、次はいよいよ本命の『あんぱん』の本格生産へ移行できる……!)
頭の中で、貨幣供給量と市場規模の完璧な均衡の計算シートが組み上がっていく。
「ふふ……これで……!」
一人で満足そうに頷く僕を見て、リーザがぽかんと首をかしげた。
「あの……カイル様? すごく難しそうな顔でブツブツ仰っていますけれど……」
「ん? ああ、いやね! これは貨幣供給と実体経済の均衡を保ちつつ、市場の流動性を拡大させるための高度な戦略で——」
「窯を増やして、あんぱんをいっぱい焼き立てで食べたいだけですわね?」
「……あ」
ズバリと言い当てられ、僕は言葉を詰まらせた。
「そもそも、今売っているのはあんぱんではなくてクッキーですわ!」
「……そうじゃった。まずはクッキーじゃったな」
僕が照れ隠しに小さく咳払いをすると、厨房の中にドッと温かい笑い声が弾けたのだった。




