第5話 懐かしい味は、二枚の生地の間に
それから、数日が経った。
春の陽射しが差し込む執務室で、カイルは書類に目を通していた。
窓の外からは、街を行き交う人々の声が聞こえてくる。
ノルデンの春は、今日も穏やかだった。
「……なあ、カイル」
「ん?」
向かいの椅子に腰掛けていたジークが、珍しく歯切れの悪い声を出した。
「あの、よ……」
「どうしたんだい?」
「……ついでに、思い出したんだ」
カイルの手が止まった。
「……え? 何を?」
心臓が、どくんと跳ねた。
あの日、薄紅色の花の下で倒れたジーク。
竹刀、仏蘭西、菓子作り。
そして、さくら。
あれからジークの体調に大きな変化はなかったものの、カイルはずっと気にかけていた。
「……また、夢を見たのかい?」
「いや。そうじゃねぇんだけどさ」
ジークは頭を掻いた。
「この前の夢に、もう一つ、菓子が出てきた気がしてよ」
「……菓子?」
「ああ。ほら、ルージュ豆のあんぱんがあるだろ?」
「うん」
「あの餡に似た、甘いもんを挟んだやつなんだ」
カイルは首を傾げた。
「……挟んだ?」
「そう。パンじゃねぇんだよ。丸くて、平べったくて……茶色い生地が二枚あってさ」
ジークは両手を使い、空中に丸い形を描いた。
「その間に、あんこがたっぷり入ってんだ」
カイルの眉が、ぴくりと動いた。
「……ジーク。それって……」
「なんつったかな……」
ジークは目を閉じた。
しばらく考え込み、やがて小さく呟く。
「……どら……焼き?」
「……!」
カイルは勢いよく立ち上がった。
「どら焼き!?」
「うおっ!? なんだよ、急に!」
「知ってる! 僕、それも知ってるよ!」
「……は?」
「どら焼きだよ! 丸く焼いた甘い生地で、餡を挟んだお菓子!」
「……そう! それだ!」
ジークがぱっと顔を上げた。
「なんだよ、やっぱりお前のいた世界の菓子なのか!」
「うん!」
カイルは思わず笑みを浮かべた。
けれど、その胸の奥では、別の感情が静かに膨らんでいた。
ジークは、また一つ、日本のものを思い出した。
偶然なのだろうか。
それとも——。
「……カイル?」
ジークの声に、我に返る。
「あ、ごめん。なんでもないよ」
「……ふうん?」
ジークはしばらくカイルを見つめていたが、やがてにやりと笑った。
「で、よ」
「……うん?」
「そのどら焼きってやつ……作れねぇのか?」
カイルは目を瞬かせた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……そうだね、作ってみようか」
◇
「……というわけで、どら焼きを作ります!」
厨房に響き渡るカイルの声。
目の前には、小麦粉、卵、砂糖、そしてルージュ豆から作った餡が並んでいた。
「……いや、ちょっと待て」
ジークが眉を寄せた。
「お前、なんでそんなに張り切ってんだよ」
「だって、懐かしいお菓子なんだもの」
「……お前もかよ」
「ふふ。そういうこと」
カイルは袖をまくり、材料を確認した。
「生地は、小麦粉と卵、砂糖を混ぜて……」
「……それだけか?」
「うーん。もう少し工夫が必要かな。ふっくら焼きたいし」
蜂蜜があれば風味もよくなる。
ただし、前世で食べたどら焼きと、まったく同じものが作れるとは限らない。
「まずは試作だね」
「おう!」
二人はさっそく生地を混ぜ始めた。
ところが——。
「……あれ?」
カイルが焼いた生地は、妙に薄く広がってしまった。
「……なんか、違わねぇか?」
「……うん。ちょっと薄いね」
「これじゃ、あんこ挟んだら破れそうだぞ」
「もう少し生地を調整しようか」
再び材料を混ぜる。
今度は少し厚めに。
熱した鉄板に生地を落とすと、じゅう、と小さな音がした。
甘い香りが厨房に広がっていく。
「……おっ」
ジークが身を乗り出した。
「いい匂いじゃねぇか」
「うん。今度はうまくいきそうだね」
生地の表面に、小さな気泡が浮かび始めた。
カイルが返そうとした、そのとき。
「……あ、待て」
「え?」
ジークが、ふいに手を伸ばした。
「もう少し……」
その声が、妙に真剣だった。
「端が乾いてからだ。今返すと、形が崩れる」
カイルは動きを止めた。
「……ジーク?」
「……ん?」
「どうして、分かるんだい?」
「……え?」
ジーク自身も、不思議そうに自分の手を見つめた。
「……いや。なんとなく……」
言いながら、焼け具合を確かめる。
それから、木べらを生地の下へ滑り込ませた。
くるり。
綺麗な焼き色のついた生地が、鉄板の上で裏返った。
「……おお!」
カイルが声を上げた。
「すごい! 綺麗に焼けたね!」
「……あ、ああ」
ジークは返事をしながらも、どこか呆然としていた。
今の動き。
生地の端を見て、返す頃合いを判断したこと。
木べらを差し込む角度。
誰かに教わった覚えはない。
それなのに、手が勝手に動いた。
「……ジーク?」
「……いや」
ジークは小さく首を振った。
「なんでもねぇ」
◇
焼き上がった二枚の生地。
その間に、ルージュ豆の餡をたっぷりと挟む。
形を整えれば、丸くふっくらとした菓子が出来上がった。
「……できた!」
カイルが嬉しそうに声を上げる。
ジークは目の前の菓子を、じっと見つめていた。
茶色い生地。
間からわずかに覗く餡。
甘く、香ばしい匂い。
「……これだ」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
「……ジーク?」
「夢で見たのと……同じだ」
ジークはそっと一つ手に取った。
指先に伝わる、柔らかな感触。
ゆっくりと口へ運ぶ。
ひと口、かじった。
「……」
ふんわりとした生地。ルージュ豆の優しい甘さ。
噛むほどに広がる、香ばしい風味。
ジークはしばらく動かなかった。
「……どう?」
カイルが尋ねる。
ジークはゆっくりと顔を上げた。
「……うめぇ」
その声は、いつもより小さかった。
「なんだろうな」
もう一度、菓子に目を落とす。
「初めて食ったはずなのに……」
ジークは困ったように笑った。
「……ずっと前にも、食った気がする」
カイルは何も言わなかった。
ただ、隣に腰を下ろし、自分もどら焼きを一口かじった。
「……うん。美味しいね」
「……ああ」
しばらく、二人は黙って菓子を食べた。
窓の外では、春風が街を吹き抜けている。
「……なあ、カイル」
「ん?」
「これ、店でも売れんじゃねぇか?」
カイルは目を瞬かせた。
それから、ふっと笑った。
「……そうだね。まずは職人さんにも試してもらおうか」
「おう!」
ジークはいつもの調子で笑った。
けれど、手元に残った半分のどら焼きを見つめる横顔には、まだ微かな戸惑いがあった。
カイルはそれに気づいていたが、何も尋ねなかった。
今はただ、二人で作った菓子を味わっていたかった。
春の陽射しが、焼きたてのどら焼きを柔らかく照らしていた。




