第4話 散りぬる花と記憶の遠鳴り
——乾いた音が、道場に高く響いていた。
踏み込んだ足が板張りの床を鳴らし、振り下ろされた竹刀が空気を裂いて相手の面を捉える。
『一本!』
誰かの威勢のいい声。
荒い息を吐き出しながら、ゆっくりと竹刀を下ろす。
手に残る竹の硬質な感触。汗と防具の匂い。窓から斜めに差し込む陽の光。
何度も、何度も繰り返してきた動作だった。
間合いも、踏み込む瞬間も、すべてが身体に染みついている。
——剣を振ることだけは、誰にも負けたくなかった。
確かに、そう思っていたはずだった。
◇
『……仏蘭西へ、ですか?』
気がつくと、畳の上に正座していた。
目の前には、厳しい眉根を寄せた年長の男が腰を下ろしている。
『そうだ。お前には海を渡ってもらう』
『しかし、私は……』
『決まったことだ』
問答を許さぬ声。
膝の上で、ぎゅっと拳を握りしめる。
仏蘭西。
海の向こうにあるという、途方もなく遠い異国。
言葉も、風習も、何ひとつ知らぬ世界。
『……なぜ、私なのですか』
問いかけに答えは返ってこなかった。
ただ、小さな文机の上に置かれた一通の書状だけが、やけにはっきりと見えていた。
◇
大きな鐘の音。
石畳を響かせて走り去る馬車。
四方から降ってくる、意味の取れない異国の言葉。
人混みの真ん中で立ち尽くしていた。
何を話しているのか、さっぱり分からない。
道を尋ねることすら叶わず、故郷で当たり前だった立ち振る舞いは何ひとつ通用しなかった。
腰に刀はない。
手に握りしめているのは、見慣れぬ文字が並んだ一枚の紙切れだけ。
——自分は一体、何をしにここへ来たのだろう。
◇
甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
小麦粉の匂い。溶かした砂糖。熱を得て膨らむ生地の香ばしさ。
白い前掛けを身につけ、見知らぬ厨房に立っていた。
『ノン、ノン!』
誰かが身振り手振りを交えて何かを叫んでいる。
意味は分からずとも、自分が失敗したことだけは理解できた。
頭を下げ、もう一度、生地に手を伸ばす。剣を握るために鍛え上げたはずの手が、今は柔らかく粘り気のある生地を、力加減を探りながらこねている。
何度も失敗した。
焦がし、膨らまず、不格好に崩れた。
それでも、手を止めなかった。
やがて、小さな焼き菓子が焼き上がった。
手のひらに載せ、じっと見つめる。
不思議だった。
竹刀を振り抜いたときとは、まるで違う。
なのに——何かを形作り、差し出したときの胸の奥の熱さだけは、どこか似ていた。
◇
景色が、唐突に切り替わった。
懐かしい日本の街並みだった。
軒先には、ふっくらと焼き上がった丸いパンが並んでいる。
その一つを手に取り、そっと指で割った。
中から、黒く艶やかな餡が顔を覗かせる。
『……あんぱん……』
知っている。
この手ざわりも、甘さも、香りも。
その瞬間、春の風が吹き抜けた。
薄紅色の花びらが一枚、鼻先をかすめる。
伸ばした指先に、ふわりと落ちる花弁。
見上げれば、そこには見事な花を咲かせた一本の木があった。
幾重にも重なった薄紅の花びらが、陽光を透かして柔らかく輝いている。
『……さ、く……ら……』
声にした途端。
ズキンッ!
『……っ!』
頭の奥を、鋭い痛みが貫いた。
思わず額を押さえる。
道場の床。海を渡る船。石畳の街。
粉にまみれた両手。
見知らぬ顔が、いくつも浮かんでは消えていく。
『……待て……!』
思い出せそうなのだ。
己が誰であったのか。
なぜ海を渡り、なぜ剣を置いた手が菓子をこねていたのか。
あと少しで——。
『……ジーク!』
遠くで、切羽詰まった声がした。
『ジーク! しっかりして!』
知らない名前だった。
少なくとも、この懐かしい街並みの中では。
けれど、その声には聞き覚えがあった。
『……ジーク!!』
何度も呼ばれている。
自分を、誰かが、必死に。
『……カイル……?』
舞い散る薄紅の向こうに、眩い金色の髪が見えた気がした。
手を伸ばそうとする。
けれど、指先は何にも触れなかった。
花びらが舞い上がる。
街並みが歪む。
足元が、音もなく崩れ落ちていく。
◇
「……ジーク!!」
「……っ、は……!!」
ジークは大きく息を吸い込み、目を見開いた。
白い天井。鼻を突く薬草の匂い。
窓から差し込む、春の柔らかな光。
「ジーク!?」
すぐ傍らから、聞き慣れた声が響いた。
顔を向けると、カイルが寝台の脇に身を乗り出していた。
「……カイル……?」
「よかった……! 目を覚ましたんだね……!」
カイルは大きく息を吐いた。
その顔色は青ざめ、ひどく疲弊している。
「……なんだよ。そんな顔して」
「君が、急に倒れたから……」
「……倒れた?」
「花を見ていたと思ったら、頭を押さえて……。呼びかけても返事がなくて、本当に心配したよ」
「……花……?」
ジークは呆然と呟いた。
その瞬間、夢の中で散っていた薄紅色の花びらが、脳裏をよぎった。
「……さくら……」
カイルの身体が、ぴくりと強張る。
「……ジーク。今も、その言葉を覚えているんだね?」
「……ああ」
ジークは重い頭を支えながら、ゆっくりとうなずいた。
「妙な夢を見たんだ……」
「……夢?」
「ああ。竹刀を振ってて……それから、知らねぇ国へ行って……」
ジークは眉を寄せた。
「そこで、菓子を作ってた」
「……菓子……?」
「何言ってるのかさっぱり分かんねぇ連中に囲まれてさ。何度も失敗して……」
ジークは自分の手のひらを見つめた。
分厚く、筋張った手。剣を振るうために鍛えた手だ。
けれど、夢の中では——。
「……この手で、生地をこねてたんだよ」
カイルが息を呑む音が聞こえた。
「それで……丸いパンが出てきた。中に甘い餡が入ってて……」
「……」
「……あんぱん、だった」
ジークはぽつりと呟いた。
「ノルデンにもある、あのあんぱんだよ。けど……夢の中じゃ、ずっと昔から知ってるみてぇだった」
カイルは何も言わなかった。
「おかしいよな。あんぱんなら、ここで初めて食べたはずなのに……」
ジークは苦笑した。
「夢の中で見たやつは、なんつーか……ずっと前から知ってるみたいに、懐かしかったんだ」
カイルの指先が、膝の上で微かに震えていた。
ジークは、数年間、ノルデンを離れていた。
なぜ今、夢の中でそれを見て『懐かしい』と感じているのか。
(竹刀……フランス……菓子……あんぱん……)
カイルの思考が激しく混乱していた。
前世の知識として、幕末から明治にかけての歴史や『桜』や『あんぱん』の存在は知っていた。
だがーー。
(誰なんだ……? ジークが見ているのは、一体……誰の記憶なんだ……?)
ジークは考え込むカイルをじっと見つめ、不思議そうに眉を寄せた。
「……おい、カイル?」
「……」
「お前、さっきから変だぞ。森で俺が『さくら』って口にした時も、すげぇ顔して……今だってそうだ。まるで、俺の見た夢を知ってるみたいじゃねぇか」
カイルは胸の奥で、カチリと何かが外れる音を聞いた。
これまでずっと隠してきた。誰にも言えず、この胸の奥底だけに沈めてきた秘密。だが、目の前で苦しみ、見たこともない過去に惑わされているジークの姿を見て、自分だけが安全な場所で黙っていることなど、もうできなかった。
カイルは深く、深く息を吐き出し、ゆっくりと顔を上げた。
「……ジーク。隠すつもりは、なかったんだ」
「……え?」
「君の夢に出てきたもの……竹刀も、さくらも、あんぱんも。僕は、どれも知っている」
「……は? なに言っ……そりゃ、あんぱんはお前がここで……」
「そうじゃないんだ」
カイルは寝台の脇にそっと腰を下ろし、真っ直ぐにジークの目を見つめた。
「この世界に生まれるよりずっと前……僕には、別の世界で生きていた頃の記憶があるんだよ」
ジークは目を見開き、言葉を失った。
「そこには魔石も魔法もなかった。けれど、今のノルデンにはないものがたくさんあったんだ。僕たちが日本と呼んでいたその場所には……!」
部屋の中に、重い静寂が落ちる。
ジークは口を半ば開けたまま、カイルの顔を食い入るように見つめていた。
「……冗談、だろ……?」
「冗談なんかで、こんな話はできないよ」
カイルの静かな、だが確固たる瞳に、ジークは呑み込まれるように息を呑んだ。
「……別の、世界……? じゃあ、お前……生まれた時から、ずっとそんなものを……?」
「うん。……でもね、ジーク。僕の知っている知識のどこを探しても、君が夢で見た『剣を捨てて異国で菓子を作った人』のことは、分からないんだ」
「……え?」
「君の夢の中に出てきた人物が誰なのか……なぜ君がその景色を見ているのか……僕にも、さっぱり分からないんだよ」
ジークは自分の頭を両手で抱え込んだ。
「……頭がどうにかなりそうだぜ。じゃあ俺は……なんなんだよ? お前みたいに、別の世界から生まれ変わったってのか……? それとも、誰か別の奴の頭の中でも覗いてるのか……?」
「分からない」
カイルは正直に首を振った。
「転生なのか、誰かの記憶が残響のように君に引っかかっているのか……僕にも断言はできない。ただ……」
カイルは寝台の上のジークの手の上に、自分の手をそっと重ねた。
「一つだけ確かなのは、どんな過去や記憶があろうと、僕と一緒にノルデンで笑って、街を守ってきたのは……僕の目の前にいる『ジーク』だってことだけだ」
ジークは重ねられたカイルの手に視線を落とし、それからぽつりと呟いた。
「……なあ、怖くなかったのか?」
「……え?」
「自分だけ……誰も知らねぇ世界の記憶を抱えて生きてさ。急に頭がおかしくなったわけじゃねぇのかって……不安にならなかったのかよ」
カイルは思わず目を丸くした。
「……ジーク……」
「俺なんか、たった数回妙な夢見ただけで、頭ん中ぐちゃぐちゃになってんのにさ……お前、ずっとそんなもん一人で抱えてたんだな」
胸の奥から、温かいものが込み上げてくる。
カイルは目元を緩め、小さく微笑んだ。
「ありがとう、ジーク」
「……別に、礼を言われるようなことじゃねぇよ」
ジークは照れくさそうに頭をかくと、少し無理をするようにいつもの破顔を作ってみせた。
「ま、よく分かんねぇけどさ! お前がどこの世界から来ただろうが、今のカイルは俺たちの領主様だ。……俺だって、変な夢を見たからって急に別の奴になるわけじゃねぇしな」
「……うん。そうだね」
窓の外から、柔らかな春風が吹き込んできた。
舞い込んできた一枚の薄紅色の花弁が、寝台の上、ジークの手の甲にそっと舞い降りる。
ジークは息を止め、指先でその花びらを摘み上げた。
「……さくら、か」
今度は、あの激しい頭痛は襲ってこなかった。
けれど、胸の奥には確かに残っている。
竹刀の打ち合う乾いた音。見知らぬ石畳。粉にまみれた手。そして、焼き上がった菓子の甘い香り。
正体も、理由も、まだ何も分からない。
けれど、その懐かしい光景は、確実にジークという人間の奥底で息づいていた。
「……不思議だな。俺の知らねぇはずの過去なのに……どうしようもなく、愛おしい気がするんだ」
呟いたジークの横顔を、カイルは静かに見つめていた。
薄紅色の花びらが描く謎の向こう側に、まだ見ぬ誰かの人生と、自分たちの運命の交差点が隠されている。
二人は言葉を交わすのをやめ、春の陽光が満ちる部屋の中で、そっと寄り添うように静かな時間を共有するのだった。




