第1話 春の訪れ
長い、長い冬が、ようやくその終わりを告げようとしていた。
雪解けの水がノルデンの街道の脇をさらさらと音を立てて流れ、山々を覆っていた白銀の層が少しずつ薄れていく。厳しい寒さに縮こまっていた街全体が、あたたかな陽光に包まれてゆっくりと息を吹き返し始めていた。
大通りを行き交う人々の装いは軽やかになり、工房からは活気ある槌音が響き渡る。
だが、この街で迎える2年目の春は、人々の「表情」も、街の「空気」も、以前とはまるで違っていた。
「あら? 見てごらん。日当たりの良い空き地に、もう小さな蕾が膨らんでいるよ」
「本当だ。今年も綺麗に咲くといいなぁ」
買い物かごを抱えた町民たちが立ち止まり、街道沿いの土手に芽吹いた野の花を穏やかな笑顔で見つめている。子どもたちは泥にまみれながら、春の芽吹きを探しては歓声を上げていた。
(……また、春がきたんだな)
カイルは小さく胸の中で呟いた。
かつてのノルデンでは、春を迎えても誰もが生きるための労働に追われ、今日明日を生き延びることで頭がいっぱいだった。足元に咲く花に目をやるような心の余裕など、微塵もなかったのだ。
花は、領地改革によって突然咲き始めたわけではない。
カイルたちが仕事を作り、住まいを整え、生活の不安を取り除いたからこそ——民の心に「花を眺める余白」が生まれたのだった。
◇
「……春風が、心地よいですわね」
領主館のテラスで、毛色の軽い春物のドレスを纏ったリーザが、ふっと目を細めた。
隣に立つカイルも、大きく深呼吸をして柔らかい空気を胸いっぱいに吸い込む。
「うん。……なんだか、街のみんなの顔がすごく明るくなった気がするよ」
「ええ。お腹を満たし、温かな床で眠れるようになったからこそ、皆様も周囲の美しさに目を向けることができるようになったのです。カイル様がこの街にもたらしたものは、単なる食料やお金だけではございませんのよ」
リーザの言葉に、カイルは照れくさそうに頭をかいた。
「そんな大層なことじゃないよ。僕はただ、みんなが安心して暮らせるようにしたかっただけだから……」
その時、賑やかな足音とともに、大剣を肩に担いだジークがテラスへと顔を出した。
「おいカイル! エドワードが『春の農地と街道の整備計画書が上がってきたから見ろ』ってさ! ついでに、南の森の入口近くでちょっと珍しい花が見頃になってるらしいぜ」
「珍しい花?」
「おう。領民たちが『シェリーヌが咲き始めた』って騒いでたんだが……ガルドのオッサンが『ありゃあいつものシェリーヌと少し違うんじゃねえか?』って首を傾げててさ。散歩がてら、見に行ってみねえか?」
カイルはリーザと顔を見合わせ、微笑んだ。
「うん、行ってみよう。……春のノルデンを、見にさ」
春の陽気に誘われるように、カイルたちは芽吹き始めた南の森へと足を伸ばすのだった。




