番外編 酔いの向こうに
その夜、ノルデンの領主館では、珍しく酒の席が設けられていた。
ささやかな慰労の席だった。
「……エド、少し飲みすぎじゃない?」
「……そうでしょうか」
エドワードは、手元のグラスを見つめた。
普段なら、酒は嗜む程度にしか口にしない男だ。それが今夜に限っては、何杯目かも分からない。
「珍しいね。エドがそんなに飲むなんて」
「……ええ。私も、少々驚いております」
エドワードは小さく笑った。だが、その笑みはどこか寂しげだった。
(それにしても、この身体はどうも酒に弱いらしい)
カイルは自分のグラスを見つめながら、ひそかに苦笑した。
前世の感覚で同じペースで飲んでしまったところ、以前、あろうことか皆の前で服を脱ぎ始めるという大失態をやらかしたことがある。あのときは翌朝になってからリーザにものすごい剣幕で叱り飛ばされ、こっぴどく説教されたものだ。
それ以来、カイルは酒をかなり控えるようにしていた。
一方、部屋の隅ではローグやジークたちが無礼講で盛り上がっている。あちこちで威勢のいい笑い声が飛び交い、賑やかな空気が満ちていた。
「……カイル様」
喧騒から少し離れた席で、エドワードが静かに呟いた。
「ん?」
「あなたは……人を傷つけたことがありますか?」
唐突な問いだった。カイルは、少し考えてから答えた。
「……あるよ」
「……そうですか」
「自分では正しいと思っていたのに、誰かを傷つけてしまったこともね」
エドワードは、しばらく黙っていた。やがて、グラスを机に置いた。
「……私は、かつて一人の女性の人生を壊しました」
「…………」
「彼女は、私を信じてくれていたのです」
その声は、驚くほど静かだった。
「私の言葉を疑わず、私の望むように振る舞い……いつも、笑っていました」
エドワードは自嘲するように口元を歪めた。
「……いいえ。笑わせていた、と言うべきでしょうね」
「……エド」
「私は、それを愛情だと思っていたのです」
窓の外で、冷たい風が吹いた。
「自分が正しい。自分が彼女を幸せにしている。……そう信じて疑いませんでした」
エドワードは、ゆっくりと目を閉じた。
「……傲慢でした」
カイルは何も言わなかった。
「彼女が泣いていても、私は気づこうとしなかった。……いや、気づいていたのでしょうね」
エドワードは苦く笑った。
「ただ、都合が悪かったから、見なかったことにした」
「…………」
「そして、彼女は私のもとを去りました」
しばらく、沈黙が続いた。
「……後悔しているの?」
カイルが静かに尋ねた。
「……ええ」
エドワードは頷いた。
「ですが、後悔しているからといって、許されるわけではありません」
「……うん」
「私は……彼女に謝罪する資格すら、ないのかもしれません」
カイルはグラスを置いた。
「……エド」
「はい」
「僕には、君の過去を許すことはできないよ」
エドワードが、ゆっくりと顔を上げた。
「だって、傷つけられたのは僕じゃないから」
「…………」
「でも、これから君がどう生きるのか。それは、君自身が決められると思う」
エドワードは、しばらくカイルを見つめていた。
「……あなたは、不思議な方ですね」
「そうかな?」
「……ええ」
小さな笑みが浮かぶ。
「私は……あなたのような方に、もっと早く出会いたかった」
「……エド」
「……いえ」
エドワードは首を振った。
「それでは、あまりにも都合がよすぎますね」
そして、静かにグラスを置いた。
「……私は、今度こそ間違えたくないのです」
その声は、かすかに震えていた。
「もう二度と……誰かの人生を、自分のもののように扱いたくない」
カイルは、しばらく黙っていた。やがて、そっと微笑んだ。
その夜、エドワードはそれ以上、過去を語らなかった。カイルも、何も尋ねなかった。
◇
そして翌朝。
執務室にやってきたエドワードは、青い顔のまま書類の束を抱えて固まっていた。
「……カイル様」
「おはよう、エド」
「昨夜、私は何か失礼なことを申し上げませんでしたか?」
「いや、驚いたな、まさかあんな大胆な告白をしてくるとは……」
前夜の出来事を思い出し、カイルが呆れと感心が入り混じったような顔で呟く。
「……カイル様!?」
エドワードは耳たぶまで真っ赤に染め上げ、信じられないものを見る目で飛び上がった。
「あはは。大丈夫だよ。冗談冗談」
「……カイル様、それはからかっていらっしゃるのですか?」
「さあ、どうかな」
クスリと笑う僕に、エドワードは小さくため息をつきつつも、どこか肩の荷が下りたような、柔らかな笑みを浮かべた。
「……まったく、敵いませんね」
窓の外では、雪が上がり、ノルデンの街に眩しい朝日が差し込んでいた。




