第1話 王都の思惑と、消えた純魔石
王都、内務省。
冬の訪れを告げる冷たい風が、石造りの建物の窓をかすかに揺らしていた。
内務尚書ガルシアは、執務机に積み重ねられた報告書の一枚を手に取り、静かに眉をひそめた。
「……エドワード・フォン・ロッセ?」
その名前には、覚えがあった。
かつてロッセ伯爵家の次期当主として、王都の社交界にも名を連ねていた男。
だが、領地の財政運営において不正を働き、その爵位と財産を失った。
今では、王都から姿を消した没落貴族にすぎない。
その男の名前が、なぜノルデンの報告書に記されているのか。
「……説明しろ」
ガルシアが短く命じると、側近が一歩前に出た。
「はい。現在、エドワード・フォン・ロッセはノルデンに滞在しており、商人や住民に帳簿の付け方、契約書の読み方などを教えているようです」
「……ほう?」
「また、領主カイルの相談にも応じているとのことです」
ガルシアは、報告書へ視線を戻した。
(……あの男が、ノルデンに?)
偶然にしては、出来すぎている。
爵位を失い、財産を没収され、王都から姿を消した男。
その男が、よりにもよってカイルのもとに流れ着いたというのか。
「……正式な役職は?」
「は?」
「ノルデンの行政官として任用されたのか、と聞いている」
「い、いえ。それが……」
側近は別の書類を確認した。
「正式な官吏としての任用記録はございません。現在は、民間の立場で帳簿や契約について指導する……いわば、教師のような役割を担っているようです」
「…………」
ガルシアの指が止まった。
「……教師?」
「はい。住民や商人から相談を受け、必要に応じて領主にも助言をしているとのことです」
しばしの沈黙。
やがて、ガルシアはゆっくりと報告書を机に置いた。
(……おのれ)
もし、エドワードが正式な行政官として任用されていたならば。
過去に財政上の不正を働き、爵位を剥奪された人物を公職に就けたとして、カイルの任命責任を追及する余地があった。
少なくとも、その適格性を問題にし、任用の経緯について説明を求めることはできただろう。
だが。
(……民間の教師、か)
帳簿の付け方を教える。
契約書の読み方を指導する。
領主から相談を受ければ、助言をする。
それ自体は、何ら違法な行為ではない。
過去に罪を犯したからといって、すべての職業や社会活動を禁じられているわけでもない。
まして、ノルデンの行政権を正式に与えられたわけではないのなら、王都が人事に介入する理由も乏しい。
(……正式に任用していれば、追及できたものを)
ガルシアは、奥歯を噛みしめた。
あの若造は、どこまで考えているのか。
単に人手が足りないから、没落貴族を拾っただけなのか。
それとも、エドワードの過去を承知したうえで、あえて公職に就けず、その知識だけを利用しているのか。
(……後者なら、実に厄介だ)
だが、ガルシアが本当に警戒したのは、別のことだった。
エドワード・フォン・ロッセ。
その男は、過去に失敗したとはいえ、財政と契約の実務を知っている。
しかも、失敗したからこそ、どのような契約が人を破滅させるのかも理解しているはずだった。
「……ベルニッツ商会の件は、どうなっている?」
ガルシアが尋ねる。
「詳細は調査中ですが、商会との契約をめぐる相談がノルデンで増えているようです。エドワードも、その対応に関わっているとの情報がございます」
「……なるほど」
ガルシアは、椅子の背にもたれた。
(……そういうことか)
ベルニッツ商会の契約を、領主権限で一方的に破棄することはできない。
だが、契約内容を精査し、支払い条件を確認し、住民に正しい知識を与えることはできる。
相手が法の隙間を利用するなら、こちらも法の範囲内で対抗する。
しかも、その実務を担うのが、かつて財政運営で失敗した元伯爵だというのだから、皮肉な話だった。
「……くくっ」
「ガルシア様?」
「いや。なんでもない」
ガルシアは、口元に浮かんだ笑みを消した。
(……面白い)
偶然か、計算か。
どちらにせよ。
(……また一つ、手札を増やしたというわけか)
ガルシアは、報告書を閉じた。
「エドワード・フォン・ロッセの動向について、引き続き調べろ。ただし、違法行為の証拠もないまま動くな」
「はっ」
「それから、ノルデンの最新の財政報告も取り寄せろ。以前の報告では古すぎる」
「承知いたしました」
側近が退出すると、執務室に静寂が戻った。
ガルシアは、窓の外へ視線を向ける。
(……カイル・フォン・ヴァルハイト)
追放したはずの少年。
それが今では、王立財務院の財務総監にまで名を覚えられている。
(……お前は、一体どこまで行くつもりだ?)
その問いに答える者は、誰もいなかった。
◇
同じ頃。
王都の一角にある、セドリック・ランフォードの私邸。
暖炉の火が静かに揺れる書斎で、セドリックは一通の調査報告書を読み終えていた。
「……へえ」
その口元にはいつもの人を食ったような笑みが浮かぶ。
「これはまた、ずいぶん面白いことになってるじゃないか」
机の上には、いくつかの資料が並べられていた。
王宮の宝物管理記録。
過去の贈答品の目録。
そして、王都の裏社会に出入りする者たちから集めた断片的な情報。
セドリックは、その中の一枚を指で叩いた。
「……陛下からガルシアに下賜された、純魔石」
高い純度を持ち、極めて希少な魔石。
王家からの褒賞として授けられたそれを、ガルシアは以前、随分と誇らしげに見せびらかしていた。
ところが、ある時期を境に、ぱったりと人前へ出さなくなった。
本人は、厳重に保管していると言っていたが。
「……ふうん」
セドリックは、次の資料に目を移した。
そこに記されていたのは、一人の男の動向だった。
かつて王都の裏社会で活動していた暗殺者。
その男が、ある時期を境に姿を消している。
そして、最後に向かったとされる場所は——。
「……ノルデン」
セドリックは、小さく呟いた。
さらに、別の報告書を手に取る。
ノルデンで新設された警備隊。
その隊長を務める男の特徴。
黒髪、寡黙。
並外れた戦闘技術。
そして、以前の経歴がほとんど確認できない人物。
「……ローグ、か」
セドリックは、椅子の背にもたれた。
もちろん、これだけで同一人物だと断定することはできない。
黒髪で腕の立つ男など、王国中を探せばいくらでもいる。
だが、もう一つ。
裏社会から得られた証言があった。
ある暗殺者が、極めて高価な魔石を報酬として提示され、辺境へ向かったという話だ。
その時期が、ガルシアの純魔石が人前から消えた頃と、奇妙なほど一致していた。
「……なるほどねえ」
セドリックは、楽しそうに目を細めた。
(ガルシアがノルデンへ暗殺者を送り込んだ。そして、報酬として純魔石を渡した……というところかな?)
そう考えれば、いくつもの不自然な点がつながる。
ガルシアが純魔石を見せなくなった理由。
暗殺者が王都から姿を消した理由。
そして、ノルデンに突然現れた、経歴不明の警備隊長。
だが。
「……あれ?」
セドリックは、そこで首を傾げた。
「ちょっと待ってよ」
もし、その推測が正しいのなら。
ガルシアは、カイルを始末するために暗殺者を送り込んだことになる。
しかし、カイルは生きている。
それどころか、ノルデンは発展を続けている。
そして、暗殺者と思しき男は、その領地で警備隊長を務めている。
「……なんだ、それ」
セドリックは、思わず吹き出した。
「ははっ! まさか、暗殺しに行った相手に雇われちゃったのかい!?」
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
「いやあ、面白い。面白すぎるよ、それは!」
ひとしきり笑ったあと、セドリックは再び報告書を眺めた。
もっとも、まだ推測の域を出ない。
純魔石が実際に報酬として渡されたことを示す確かな証拠はない。
ローグという男が、王都から消えた暗殺者と同一人物であることも、確認できていない。
そして何より。
仮に暗殺者が送り込まれていたとしても、それをガルシアが命じたと立証するには、もう一段階踏み込んだ証拠が必要だった。
「……さて、どうしたものかな」
セドリックは、顎に手を当てた。
この話を今すぐ王宮に持ち込んでも、ガルシアは簡単には認めないだろう。
むしろ、こちらの情報源を探られ、証拠を隠される可能性が高い。
ならば。
「……もう少し、調べてみようか」
セドリックは、机の上の資料を一つにまとめた。
そのとき、扉の向こうから執事の声がした。
「セドリック様。ご依頼の件ですが、ノルデンについて新しい報告が届いております」
「おや、早いねえ。入っていいよ」
執事が差し出した封書を受け取り、セドリックは封を切った。
そこには、ノルデンの近況が簡潔に記されていた。
新しい工房の稼働。移住者の増加。
警備体制の整備。
そして——。
「……初雪?」
セドリックは、窓の外を見た。
王都では、まだ雪は降っていない。
だが、遥か北東の辺境では、すでに冬が始まっているらしい。
「……へえ。あそこはもう雪なんだ」
彼は報告書を読み進めた。
住宅の補修。燃料の不足。
増え続ける人口に対して、冬支度が追いついていないという情報。
「……なるほど」
セドリックの笑みが、少しだけ変わった。
今までのノルデンは、成功の報告ばかりだった。
しかし、街が大きくなれば、当然、新しい問題も生まれる。
「……さて、カイル君」
セドリックは、まだ見ぬ青年の名前を口にした。
「君は、この冬をどう乗り越えるんだろうねえ」
ガルシアが恐れる。
没落した元伯爵を受け入れた。
そして、暗殺者だったかもしれない男を、自分の街の警備隊長に据えた青年。
偶然なのか。
それとも、何か別のものがあるのか。
「……一度、会ってみたいものだね」
セドリックは、楽しそうに笑った。
だが、すぐに肩をすくめる。
「もっとも、今のノルデンに押しかけたら、邪魔者扱いされそうだけど」
彼は封書を閉じた。
「まずは、ガルシアの純魔石の行方を確かめようか」
そう呟き、暖炉へ新しい魔石を設置した。
赤い炎が、静かに燃え上がった。




