第34話 碧導の導き(前)
ノルデン領主館の一室。
執務机の上に整然と積み上げられた書類の山を前に、エドワード・フォン・ロッセは静かに佇んでいた。
売買契約書。
商人たちから寄せられた行政相談の記録。
新設された工房の取引約款。
資材調達の見積書。
そして、急増する商取引に伴う権利関係の確認要請。
領地の急速な発展に伴い、彼のもとへ運び込まれる書類の量は増える一方だった。
「……実に、喜ばしいことですね」
エドワードは一人、ぽつりと呟いた。
経済活動が活発化すれば、契約が増える。契約が増えれば、確認すべき権利関係や法的な懸念も増える。それはノルデンが確実に自立し、豊かさを手に入れつつある何よりの証拠だった。
ただ。
「……少々、量が度を越していますが」
エドワードは指先で眼鏡の位置を正すと、山の上から一枚の契約書を滑らせた。文面に視線を落とし、すっと意識を研ぎ澄ます。
彼の固有能力——【真偽鑑定】。
記された内容と、参照できる事実や記録との齟齬を見極める能力だ。ただし未来の出来事を予測したり、契約条件の妥当性を判断したりできるわけではない。それらはあくまで、彼自身の知識と経験によって吟味しなければならなかった。
「……こちらの納品実績は、記録と一致していますね」
確認済みの書類を脇へ寄せる。二枚目、三枚目、四枚目。そして五枚目に手を伸ばしたところで。
「……っ」
こめかみに鋭い痛みが走り、エドワードは思わず目を閉じて深く息を吐いた。
「……不甲斐ない」
【真偽鑑定】は使用するたびに魔力と精神力を著しく消耗する。連続して使えば負担が蓄積し、やがて激しい頭痛や眩暈に襲われるのだ。
かつては、ここまで早く限界が訪れることはなかった。
(……あれさえ、あれば)
エドワードの指先が、無意識に机の脇へ伸びた。しかし、そこには何も存在しない。
かつて愛用していた一振りの魔導杖。鑑定時の魔力循環を安定させ、使用者の負担を大幅に軽減する、彼専用の補助杖だった。だが、爵位と財産を没収された際、その杖も失われてしまったのだ。
(……今さら、惜しんでも仕方ありませんね)
エドワードは自嘲気味に口元をゆるめた。
かつての自分は、地位も財産も優れた道具さえも、あって当然のものだと思い込んでいた。その傲慢さの果てに多くの人々を傷つけ、すべてを失った。
だが、今は違う。カイルが与えてくれた新しい居場所があり、己の知識を誰かを守るために使う仕事がある。
(……ならば、今できることを)
そう気持ちを切り替え、再び書類へ手を伸ばした、その時だった。
「……エドワード?」
静かなノック音とともに、聞き慣れた声が響いた。
◇
「……また、こんなに書類が増えてる」
部屋へ入るなり、カイルは引きつった顔で机の上を見渡した。
「おや、カイル様」
「『おや』じゃないよ。ちゃんと休んでる?」
「もちろんです。適切に休憩を挟みながら進めておりますよ」
エドワードは澄まし顔で答えたが、カイルはその顔をじっと覗き込んできた。
「……顔色、悪いよ」
「…………」
「もしかして能力を使いすぎた?」
「……ほんの少々」
「少々じゃないだろう!?」
カイルは眉をひそめた。
「僕が過労で倒れたとき、エドワードは何て言った?」
「……無理をしてはならない、と」
「そうだよね?」
「…………」
「だったら、エドワードも同じだよ」
逃げ場のない正論に、エドワードは降参するように苦笑した。
「……これは一本取られましたね」
「何か、負担を減らす方法はないだろうか。ふーむ……」
「……手がないわけではありません」
エドワードは少し考え、静かに口を開いた。
「かつて私が所有していた魔導杖があれば、鑑定時の魔力消費を軽減できるのですが」
「……魔導杖?」
「ええ。魔力の循環を安定させる、補助用のものです」
「だったら、新しく作ればいいじゃないか」
「……はい?」
エドワードは思わず聞き返した。
「前と同じものじゃなくてもいいんだろう?」
「理屈の上では可能ですが……鑑定補助用の杖は、一般的な魔導武器とは構造が異なります。極めて安定した魔石と、緻密な伝導回路が必要でして」
「魔石なら、あるよ」
「…………」
エドワードは言葉を詰まらせた。
カイルが生成する高純度魔石。ノルデンの発展を支える、最も貴重な資源の一つだ。
「……ですが、カイル様。私の事務作業のために、貴重な魔石を費やす必要はございません」
「……どうして?」
「私はただの行政相談役です。ジーク殿やローグ殿のように、武器を手に領地を守るわけではありませんから」
カイルは不思議そうに首を傾げた。
「エドワードが倒れたら、僕が困るんだけど」
「……え?」
「君がいてくれるから、僕は安心して領地のことを考えられるんだよ」
カイルは真剣な表情で続けた。
「それに、これだけの書類を一人で抱え込ませるのも問題だ。担当者を増やして、仕事を分担できるようにしないとね。でも、専門的な判断にはエドワードの力が必要だろう? だったら、無理なく働ける環境を整えたい」
エドワードは、しばらく黙っていた。
自分の能力を必要としてくれる。それだけではない。自分が無理をしなくても済むように、環境から考えてくれている。
「……まったく」
「……え?」
「あなたというお方は、本当に……」
エドワードは言葉を呑み込み、眼鏡の位置を直した。
「……感謝いたします、カイル様」
カイルは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、クロウたちに相談してみよう!」
「……ええ」
エドワードは小さく頷いた。
◇
数日後。エドワードは領主館に併設された鍛冶工房を訪れていた。
「……なるほど。鑑定時の魔力循環を補助する杖、ですか」
若い職人のフィンが、興味深そうに頷いた。
「ええ。可能であれば、以前使用していたものに近い構造が望ましいですね」
「以前の杖の図面はありますか?」
「いいえ」
「……そうですか」
フィンは残念そうに肩を落としたが、エドワードは涼しい顔で続けた。
「ただし設計図なら、頭の中にあります」
「……はい?」
「長年使用しておりましたので。内部の魔力伝導路も、調整機構も、おおよそ把握しております」
「……えっ」
フィンは目を丸くした。
「まさか、全部覚えているんですか!?」
「当然でしょう。自分の能力を補助する道具なのですから」
「……当然、ですか」
呆然と呟くフィンの前から、エドワードは作業台の羊皮紙を一枚借りると、羽ペンを手に取った。
「まず、杖身の中心に主伝導路を通します。その周囲に細い補助回路を三本。魔力の流量を一定に保つため、先端の魔石から戻る循環経路を設ける必要があります」
さらさらと迷いなく線が引かれていく。寸法、伝導路の配置、魔石の固定位置、そして魔力の流れを示す矢印。
フィンは息をのんだ。
「……すごい。これ、ほとんど完成した設計図じゃないですか!」
「細部は調整が必要ですが、基本構造はこれで再現できるはずです」
「……師匠!」
フィンは思わず工房の奥へ声を張り上げた。
「ちょっと来てください! すごいものがあります!」
「ああん? なんだなんだ?」
奥からクロウが顔を出し、作業台の図面を覗き込んだ。
「……ほう」
しばらく無言で線を追っていたクロウだったが、やがてニヤリと悪そうに笑った。
「こいつは面白ぇな」
「……お褒めにあずかり、光栄です」
「いや、褒めてんのはこっちの回路だ。無駄が少ねぇ。よく考えられてやがる」
クロウは図面の一箇所を指さした。
「だが、ここは少し細すぎるな。高純度魔石を使うなら、流量が増えたときに負担が集中する」
「……なるほど」
エドワードはすぐに頷いた。
「では、伝導路を二股に分けるのはいかがでしょう?」
「悪くねぇ。だが、それなら戻りの経路も変えた方がいい」
「……確かに」
エドワードが羽ペンを走らせ、クロウも隣から線を書き加えていく。気づけば、二人は図面を挟んで真剣な議論に没頭していた。
「……師匠」
フィンが呆れたように呟く。
「楽しそうですね」
「当たり前だろ! こんな面白ぇ設計、そうそう見られねぇぞ!」
クロウは豪快に笑った。
「よし! こいつは俺たちで最高の一本に仕上げてやる!」
「……よろしくお願いいたします」
エドワードは静かに頭を下げた。




