第30話 エドワード先生
「…………は?」
彼の口から、間の抜けた声が漏れた。
「……先生、ですか?」
「うん。商業ギルドの集会所を借りて、希望する人たちに読み書きや計算、帳簿のつけ方、それから契約書の読み方を教えてほしいんだ」
「……私が?」
「そう」
「……本気でおっしゃっていますか?」
「もちろん!」
エドワードは困惑したように眼鏡を押し上げた。
「カイル様。私は、人に教えるような立派な人間ではありません」
「立派かどうかと、教えられるかどうかは別じゃないかな」
「…………」
「君の過去は隠さない。受講するかどうかは、みんなに選んでもらう。それに、最初から全部任せるつもりもないよ」
僕は続けた。
「商業ギルドにも協力してもらって、僕たちも授業の内容を確認する。君の知識を、領民が安心して学べる形にしたいんだ」
「……そこまでお考えなのですか」
「うん。あとは、君が引き受けてくれるかどうか」
エドワードは、しばらく何も言わなかった。
やがて、手元の銀の懐中時計を見つめる。
「……かつての私は、知識を持たぬ者を愚かだと思っていました」
その声は、ひどく静かだった。
「契約書を読まずに署名した者が悪い。計算できぬ者が損をするのは当然。……そう考えていたのです」
「…………」
「ですが、知らぬ者に不利な条件を押しつけていたのは、ほかならぬ私でした」
エドワードは、懐中時計の蓋を閉じた。
「……今度は、その者たちに知識を教えるのですか」
「うん」
「皮肉なものですね」
そう言って、小さく笑った。
けれど、その笑みは自嘲だけではなかった。
「……一つ、条件がございます」
「何かな?」
「私の授業は、決して甘くありません」
「……え?」
「計算を間違えれば、何度でもやり直していただきます。帳簿の数字が合わなければ、合うまで確認していただく」
エドワードは真剣な顔で続けた。
「それでも、よろしいので?」
僕は思わず笑った。
「ふふっ。もちろん!」
「……では、お引き受けいたしましょう」
エドワードはゆっくりと頭を下げた。
「微力ながら、お力添えいたします」
「ありがとう、エドワード先生!」
「……その呼び方は、まだ早いかと」
「えー、そうかな?」
「……せめて、初回の講義が終わってからにしてください」
僕たちは顔を見合わせ、小さく笑った。
◇
数日後。
商業ギルドの集会所には、十数人の領民が集まっていた。
プリメロをはじめ、店を失った者、これから商売を始めようとする者、帳簿の読み方を覚えたい若い職人たち。
みんな、机の上に羊皮紙と筆記具を広げている。
「……では、始めましょう」
教壇に立ったエドワードが、眼鏡を直した。
「本日の講義は、商売に必要な計算の基礎です」
彼は黒板に数字を書き始めた。
「まず、商品を一つ売るために必要な材料費を計算
してください」
「はーい!」
プリメロが元気よく返事をした。
しばらくして。
「……エドワード先生! できました!」
彼女が嬉しそうに羊皮紙を差し出した。
エドワードはそれを受け取り、静かに目を通す。
「……なるほど」
「どうですか!?」
「材料費の計算は合っています」
「やった!」
「ですが、これだけでは利益は分かりません」
「……えっ?」
「家賃や設備の支払いなど、商品が売れなくても発生する費用があります。それらも考えなければ、商売を続けられるかどうかは判断できません」
エドワードは黒板に新しい数字を書いた。
「例えば、一つ売るごとに銅貨三枚が残る商品があったとしましょう。毎月の家賃や設備の支払いが銀貨六枚、つまり銅貨六十枚なら……」
「……二十個?」
「その通り。少なくとも二十個売って、ようやく固定費を賄える計算です」
「じゃあ、二十個より多く売らないと、生活費が出ないんだ!」
「ええ。よく気づきましたね」
エドワードが頷いた。
プリメロの顔が、ぱっと明るくなった。
「……なるほど! だから、材料費と家賃を分けて考えるんですね!」
「その通りです」
エドワードは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……では、次の問題へ進みましょう」
「ええっ!? もう!?」
「商売に待ったはありませんので」
集会所に笑い声が広がった。
入口の近くでは、ジークが腕を組んでその様子を眺めていた。
「……おいおい。あいつ、容赦ねぇな」
隣に立つリーザが、くすりと笑った。
「ですが、皆さま楽しそうですわ」
「まあな。……意外と先生に向いてるんじゃねぇか?」
ジークは頭をかいた。
「……俺だったら、三問目で逃げ出してるけどな!」
「ふふっ。ジーク様も受講なさいます?」
「……いや、俺は遠慮しとく!」
僕は思わず吹き出してしまった。
教壇に立つエドワードは、そんな僕たちには気づかず、真剣な表情で生徒たちの羊皮紙を確認している。
かつて、人々の知識不足につけ込んで利益を得ていた男。
その彼が今、同じ知識を人々へ教えている。
もちろん、これで彼の過去が消えるわけじゃない。
そして、今回の調停で勝ったからといって、ベルニッツ商会との問題がすべて解決したわけでもない。
けれど。
(……知っていれば、守れるものがある)
契約書を読めること。
支払いの計算ができること。
分からないことを、分からないままにしないこと。
そんな小さな知識が、いつか誰かの暮らしを守る力になる。
「……さて、皆さん」
エドワードが黒板の文字を消した。
「次は、契約書の読み方についてお話ししましょう」
生徒たちが顔を上げる。
「特に、分割払いの契約では、支払いが遅れた場合に何が起こるのか、必ず確認する必要があります」
プリメロが真剣な表情で頷いた。
「……はい!」
「では、最初の問題です」
エドワードは一枚の契約書の見本を掲げた。
「この契約書の中で、皆さんが最も注意すべき条項はどこでしょう?」
生徒たちが一斉に羊皮紙を覗き込む。
その光景を眺めながら、僕は小さく微笑んだ。
ノルデンには、まだまだ課題が山積みだ。
これからも、誰かが失敗することはあるだろう。
それでも、失敗した人がもう一度立ち上がれる街にしたい。
そして、できることなら。
失敗する前に、自分の暮らしを守る知識を持てる街に。




