第28話 知識は、誰かを守るために
「……つまり、商会側は遅延後も、次回の分割支払期日と金額を具体的に案内していた、と?」
調停員が確認すると、エドワードは静かに頷いた。
「その通りです」
彼は領収書を指先で押さえた。
「これは単に、入金を受領したという記録ではありません。商会自身が、今後も分割払いが続くことを前提とした案内を行っていた証拠です」
マティアスの笑みが、わずかに引きつった。
「……それは、帳簿処理上の定型文に過ぎまへん」
「なるほど。では、その旨を申立人に説明なさった記録は?」
「…………」
「一括請求権を留保していることを、別途通知した記録は?」
「……契約書に明記してはります」
「契約締結時の一般条項については、承知しております、マティアス殿」
エドワードは一歩も引かなかった。
「私が尋ねているのは、遅延後、商会自身が翌月の支払額を案内した際の説明です」
沈黙。
「……ノエル」
マティアスが小声で呼びかけた。
秘書のノエルは慌てて書類をめくる。
「……確認いたします」
だが、何枚めくっても、求められた記録は出てこなかった。
「……そのような通知は、現在の提出資料にはございません」
「ノエル!」
「も、申し訳ございません……!マティアス様!」
エドワードは、そのやり取りを静かに見つめていた。
「さらに、もう一点」
「……まだ何かありますのか?」
マティアスの声から、先ほどまでの余裕が消えていた。
「商会側が申立人に送付した、設備引き揚げの予告書です」
エドワードは別の書類を提示した。
「この予告書には、一括請求額と設備引き揚げ予定日が記されています。しかし、残債の計算内訳が添付されていません」
「……契約書に計算方法は書いてはります!」
「では、確認させてください」
エドワードは羽ペンを取った。
「申立人が支払った分割金のうち、設備代金の元本に充当された額はいくらですか?」
「…………」
「分割手数料として受領した額は?」
「……ノエル」
「は、はい……!」
「そして、設備を引き揚げた後、その設備の評価額を残債から控除する取り決めはありますか?」
マティアスの表情が変わった。
「……何が言いたいんです?」
「設備を引き揚げ、その価値を回収しながら、設備代金の残額をそのまま全額請求するのであれば、回収額の調整が必要になる可能性があります」
エドワードは静かに続けた。
「契約の文言だけでなく、実際の請求額がどのように算出されたのか。その根拠を明らかにしていただきたい」
調停員が頷いた。
「確かに、その点は重要です。ベルニッツ商会殿、計算資料をご提出いただけますか」
「……っ」
マティアスは唇を噛んだ。
ノエルが差し出した帳簿を、乱暴に受け取る。
何度も数字を追い、ようやく顔を上げた。
「……設備の評価額については、まだ算定しておりまへん」
「では、現時点では、請求額の妥当性を確認できませんね」
エドワードが言った。
マティアスは答えなかった。
調停室に、重い沈黙が落ちる。
僕はその光景を、息を詰めて見つめていた。
(……すごい)
エドワードは、契約書そのものを否定していない。
相手の権利を、感情だけで奪おうともしていない。
ただ、相手が実際に行った説明と請求の根拠を、一つずつ確かめている。
そして、商会自身が残した記録によって、マティアスの主張を揺るがしていた。
「……調停員殿」
エドワードが静かに口を開いた。
「申立人は、今後も分割金を支払う意思を示しています。これまでの支払状況も、遅延後は安定しております」
「……ええ」
「そこで、商会側には、一括請求と設備引き揚げの実施をいったん見合わせ、残債の計算を明らかにした上で、従来の分割払いを継続する方向で協議していただきたい」
調停員はしばらく考え、マティアスへ向き直った。
「ベルニッツ商会殿。現在の資料では、即時の設備引き揚げを正当化する事情について、なお確認が必要です」
「…………」
「このまま協議が成立しなければ、双方が別途、正式な裁判手続で争うことになります。その場合、領収書の記載や請求額の算定方法についても、争点となるでしょう」
マティアスの頬が、ぴくりと動いた。
「……つまり?」
「当調停としては、一括請求および設備引き揚げを撤回し、従来の分割払いを継続する案を提示します。申立人は、今後の支払期日を厳守する。その条件で、双方の合意を求めたいと考えています」
「…………」
マティアスは、黙り込んだ。
ここで拒否することはできる。
だが、その先には正式な裁判が待っている。
しかも、商会自身が発行した領収書や、内訳の不明瞭な請求書を証拠として争わなければならない。
少なくとも、当初のように店主を脅して設備を引き揚げるだけでは済まなくなった。
「……旦那様」
ノエルが小声で囁いた。
「これ以上争えば、他の契約についても確認を求められる可能性が……」
「……分かっとるわ」
マティアスは低く吐き捨てた。
そして、しばらくの沈黙の後。
「……ええでしょう」
その声は、先ほどまでの余裕を失っていた。
「今回に限り、一括請求と設備引き揚げは撤回します。従来の分割払いを継続することで、合意いたしましょう」
「……ほ、本当ですか!?」
店主が顔を上げた。
「では……設備は……店は、そのままで……?」
調停員が頷いた。
「双方が合意すれば、その内容を調停調書に記録します。今後は、その条件に従っていただきます」
店主の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……ありがとうございます……!」
彼は何度も頭を下げた。
「本当に……ありがとうございます……!」
僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。
失われずに済んだ店がある。
守ることのできた暮らしがある。
それだけで、ここへ来た意味があった。
「……では、合意内容を確認します」
調停員が調書の作成に取りかかった。
マティアスは苦々しい表情で、エドワードを睨みつけた。
「……ロッセ伯爵」
「何でしょう?」
「あなたの過去は、消えまへんで」
エドワードは静かに頷いた。
「……ええ。存じております」
「その知識で、どれだけの人間を苦しめたか……忘れたわけやありまへんな?」
「もちろんです」
エドワードは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「ですから、今度は同じ知識で、誰かを守ることにしたのです」
「……っ!」
マティアスの顔が歪んだ。
エドワードは眼鏡を直した。
「それと、一つ訂正を」
「……何です?」
「私はすでに爵位を失っております。伯爵とお呼びいただく必要はありません」
彼は穏やかに微笑んだ。
「今の私は、ノルデン領主カイル様のもとで働く、一人の人間ですので」
マティアスは何も言い返さなかった。
ただ、握りしめた契約書が、くしゃりと音を立てた。
◇
調停を終え、裁判所の外へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。
「……っしゃあああ!!」
突然、ジークが拳を突き上げた。
「やったじゃねぇか! あの商人、最後は何も言えなくなってたぞ!」
「ジーク、声が大きいよ!」
「いいじゃねぇか! 見たか、あいつの顔!」
リーザも、ほっとしたように微笑んでいた。
「何より、お店を守ることができてよかったですわね」
「……うん」
僕は頷いた。
店主は、何度も僕たちに礼を言って帰っていった。
明日からも、あの店には明かりが灯るのだろう。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
「……エドワード」
「はい、カイル様」
「ありがとう。君のおかげだよ」
彼は小さく首を振った。
「……いいえ。私がしたのは、契約書と記録を読み直しただけです」
「でも、僕にはできなかった」
「…………」
「君がいてくれて、よかった」
エドワードは、一瞬だけ言葉を失った。
そして、眼鏡の位置を直す。
「……困りましたね」
「え?」
「そのように何度も礼を言われますと、どうにも調
子が狂います」
僕は思わず笑ってしまった。
「じゃあ、これからも慣れてもらわないとね」
「……善処いたします」
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
かつて、人を追い詰めるために使われた知識。
それが今日、一つの店を守った。
もちろん、これですべてが解決したわけではない。
マティアスは、きっと諦めないだろう。
他にも、不当な契約で苦しんでいる人がいるかもしれない。
それでも。
(……一人じゃ、できなかった)
僕は隣を歩くエドワードを見た。
(……君の力を借りて、本当によかった)
ノルデンの街に、午後の鐘が鳴り響いた。
今日、守ることのできた小さな店。
その明かりが、明日も、その先も、灯り続けるように。
僕たちは、まだ歩き始めたばかりだった




