第27話 「大事な話し合い」
領内簡易裁判所。
重厚な木製の長テーブルを挟んで、静かな緊張感が漂っていた。
片側には、ベルニッツ商会の代表として優雅に腰を下ろすマティアスと、秘書のノエル。
反対側には、領内簡易裁判所の調停員、そして弁済計画の再協議を求めて申し立てを行った小規模事業者の店主が座っている。
僕とエドワードは、申立人から依頼された手続支援者として、同席を許されていた。
その少し後ろの傍聴席には、ジークとリーザの姿もあった。
「……なあ、リーザ。これから何が始まるんだ? カイルは大丈夫なのか……?」
普段は豪快なジークも、慣れない裁判所の空気に落ち着かない様子だった。
「大事な話し合いですわ。契約が本当に正しく扱われているのか、それを確かめるための……」
「……話し合い、ねぇ。剣で戦うなら俺にも分かるんだがな」
ジークは前方に座る僕の背中を見つめた。
「……あいつ、また無茶しねぇだろうな」
「大丈夫ですわ。今回は、エドワード様もご一緒ですもの」
そう答えながらも、リーザは膝の上でそっと両手を握り合わせた。
夫を信じている。けれど、心配でないはずがなかった。
「——では、ベルニッツ商会による『期限の利益の喪失および設備引き揚げ』に対する異議申立ての調停を開始します」
調停員が書類を整理しながら宣言した。
店主は緊張に震える手で羊皮紙を握りしめている。
「ベルニッツ商会殿。申立人は過去に一度だけ支払いが三日遅延したものの、その後、遅延分と利息を納付しております。今回の一括返済および即時設備引き揚げの要求は、あまりに過酷ではないでしょうか」
調停員の問いかけに対し、マティアスは薄く微笑み、洗練された動作で契約書の写しを提示した。
「調停員様、お気持ちは分かりますが……契約は契約でございます」
その声には、揺るぎない自信があった。
「第七条第二項には『一度でも支払期日を徒過した場合、債権者は何らの通知催告を要せず期限の利益を失わせ、残額の全額を請求できる』と明記されております」
マティアスは店主へ視線を向けた。
「わてらは王国法に基づき、正当な権利を行使しておるだけに過ぎません」
「……ですが、私はもう遅れた分を払いました! その後だって、一度も支払いを遅らせていません!」
店主が声を上げた。
「ええ。受け取っておりますとも」
マティアスはにこやかに頷いた。
「ですが、それと契約上の権利は別の話です」
「そんな……!」
店主が肩を落とす。
契約書には、確かにそう書かれている。
その一文が、彼の生活を根底から覆そうとしていた。
だが、そのとき——。
「……調停員殿。発言の許可をいただけますか」
静かな声が響いた。
エドワードだ。
調停員は申立人である店主に確認を取り、小さく頷いた。
「申立人の手続支援者として、契約条項に関する意見を述べることを許可します」
「……承知しております」
エドワードはゆっくりと立ち上がり、眼鏡の位置を直した。
「では、契約書の第七条について、一点確認させていただきます」
「……なんでっしゃろ?」
「商会側は、問題となった遅延の後も、三回にわたって定期支払いを受領し、領収書を発行していますね」
「……それが何か?」
「その間、一括返済を求める通知は送付されていません」
「契約書には、通知は不要と書いてありますがな」
「ええ。存じております」
エドワードは淡々と答えた。
「ですが、契約上の権利が存在することと、その権利をいつ、どのように行使しても許されることは、同じではありません」
マティアスの眉が、わずかに動いた。
「……ほう?」
「王国の裁判実務でも、当事者間に生じた正当な信頼を、一方的に裏切る権利行使は制限され得ます。いわゆる信義誠実の原則です」
エドワードは領収書の写しを示した。
「商会側が遅延後も従来どおりの分割金を受領し続けたことで、申立人には分割払いを継続できるという期待が生じています。その事情を無視して、突然全額の返済を求めることには、疑問があります」
調停員が書類に目を落とした。
マティアスはしばらく黙っていたが、やがて口元に薄い笑みを浮かべた。
「……なるほど。見事な法理の組み立てですな」
そして、ゆっくりと背もたれに身体を預ける。
「さすがは、かつて王都で名を馳せた財務と法務の天才」
その瞳が、エドワードを捉えた。
「……エドワード・フォン・ロッセ伯爵」
——静寂。
調停室の空気が、一瞬にして凍りついた。
「おや、ご存じありませんでしたか?」
マティアスは傍らのノエルから一束の新聞の写しを受け取り、テーブルの上へ滑らせた。
「王都で公金を横領し、悪質な取引で多くの人間を路頭に迷わせ、爵位を剥奪されて追放された……あのロッセ伯爵家の元当主様ですわ」
店主の顔が青ざめた。
「……そ、そんな人が……?」
「カイル様」
マティアスは僕へ視線を向けた。
「そのような罪人の言葉を信じ、領内の商取引を混乱させるおつもりですか?」
傍聴席で、ジークが低く唸った。
「……汚ねぇ真似しやがる」
「ジーク様」
リーザがそっと袖を引いた。
「今は、カイル様たちを信じましょう」
「……ちっ」
僕は静かに立ち上がった。
「マティアス」
「……なんでございましょう?」
「エドワードが過去に何をしたのか。その責任について、僕は軽く考えていないよ」
僕は新聞の写しに目を向けた。
「でも、今ここで話し合っているのは、彼の過去じゃない」
「……ほう?」
「君たちの契約と、その権利行使が適正かどうかだ」
僕は調停員へ向き直った。
「もちろん、判断するのは僕ではありません。どうか双方の主張と証拠に基づいて、公正に進めてください」
調停員は頷いた。
「承知しました。ベルニッツ商会殿、先ほどの指摘について、ご意見を伺います」
マティアスは肩をすくめた。
「ええでしょう」
そして、余裕たっぷりに契約書を指差す。
「第十二条をご覧ください。『債権者が権利を直ちに行使しなかった場合でも、当該権利を放棄したとはみなさない』」
彼はにやりと笑った。
「つまり、分割金を受領したからといって、わてらが一括請求の権利を放棄したことにはなりまへん」
「……存じております」
エドワードは表情を変えなかった。
「ですが、私が問題にしているのは、権利の放棄ではありません」
「……何やて?」
「商会側が、申立人に対して実際にどのような説明を行ったかです」
エドワードは一枚の羊皮紙を取り出した。
「調停員殿。こちらをご確認ください」
差し出されたのは、商会が発行した領収書の写しだった。
「……領収書?」
「ええ。問題となった遅延の後、二回目に発行されたものです」
エドワードは、その下部に記された一文を指差し
た。
「ここには、こうあります」
彼は静かに読み上げた。
「『次回支払期日、翌月十五日。次回支払予定額、銀貨二十枚』」
調停員が目を見開いた。
マティアスの笑みが、ぴたりと止まった。




