第25話 法の刃と、見えざる前線
領主館の執務室。
窓から差し込む午後の光を受けながら、僕とエドワードはデスクの上に広げられた書類の山に向かい合っていた。
商業ギルドでの標準比較試算表の運用が始まって以降、新規の「設備分割購入契約」を巡る相談や被害は減少し始めている。だが、エドワードの表情に油断の色は一切なかった。
「……カイル様、そろそろ『第二波』が来ますよ」
「第二波……? 新規の不透明な契約は、試算表のおかげでかなり防げているはずだけど……」
「ええ。『新規』は、です」
エドワードは細い指先で、デスクに置かれた過去の契約者一覧をトントンと叩いた。
「マティアスのような男が、ひとつの手を封じられた程度で諦めるはずがありません。新規契約で利益を得にくくなれば、次は既存契約からの回収を強めるでしょう」
「既存の契約……?」
「ええ。契約書に盛り込まれた『期日までに支払いがなされなかった場合、残債の全額を直ちに請求できる』という条項です。支払いが滞っている事業者に対し、期限の利益の喪失を宣言する。そして、担保となっている設備の引き揚げを求めるのです」
「そんなことをされたら……!」
「工房を失う者が出ます。ですが、契約上の権利である以上、行政が一方的に取り消すことはできません」
エドワードは淡々と言った。
「……すべてを救えるとは、考えないでください」
「……エドワード」
「あなたがまた倒れれば、救えるはずの人間まで救えなくなる。今度こそ、できることと、できないことを見極める必要があります」
「……あれ?」
そのとき、ふとプリメロの言葉が頭をよぎった。
『あたし、なくしちゃって……そんなに大事なものだって知らなくて』
「……エドワード」
「はい、カイル様?」
「この前、プリメロに話を聞いたときのことなんだけど……」
僕は机の上に並んだ通知書へ目を落とした。
「彼女、領収書をなくしたって言っていたよね」
「……ええ」
「でも、ほかの人たちはどうだろう?」
「……と、申しますと?」
「今回、通知を受け取った人たちも、これまで何度か支払いをしているはずだよね。だったら……」
僕は顔を上げた。
「もしかしたら、領収書を残している人がいるんじゃないかな?」
エドワードは、しばらく僕を見つめていた。
「……なるほど」
彼は静かに眼鏡を押し上げた。
「確かに、確認する価値はありそうですね」
「……本当かい?」
「ええ。ただ、何が分かるかは、実物を見てみなければ何とも申し上げられません」
「……うん」
「ですが、契約書以外にも、取引の経緯を示す資料が残っている可能性はございます」
エドワードは通知書を机に戻した。
「まずは、相談に来られる方々に、手元の書類をすべて持参していただきましょう」
「……分かった!」
僕は頷いた。
領収書があれば、何かが変わるのか。
それは、まだ分からない。
けれど、プリメロの話を聞かなければ、思いつかなかったことだ。
(……もしかしたら)
僕は机の上の通知書を見つめた。
(……まだ、何かできるかもしれない)
◇
【翌日——ベルニッツ商会】
「……さすがはロッセ伯爵、といったところですな」
豪華な執務室で、マティアスは窓の外を見下ろしながら静かに呟いた。
「マティアス様、お調べがついたのですか?」
傍らのノエルが問いかけると、マティアスは手元の報告書に目を落とした。
「ええ。カイル様の裏で知恵を貸しておる『同類』の正体です。王都で公金横領や不正取引に関与し、爵位も財産も失った男……エドワード・フォン・ロッセ。まさか、あの元伯爵がノルデンにおったとは」
マティアスは薄く笑った。
「ですがノエル、過去に罪を犯して追放された人間が、領主の行政に関与しておる。これは、わてらにとって絶好の『カード』ですな」
「……告発、なさいますか?」
「まだ早い。まずは予定通り、支払いが滞っておる既存契約者に、期限の利益の喪失予告を送りなはれ。猶予期間を過ぎても支払いがなければ、残債の一括返済を求める。担保設備の引き揚げも、契約と王国法の定めに従って進めるんです」
「承知しました」
「……さて。ロッセ伯爵なら、どう動きますやろな」
マティアスは報告書を閉じた。
「法で防がれるなら法で返す。法で勝てぬなら、政治で返す。……使える札は、まだいくらでもありますさかい」
◇ ◇ ◇
【数日後——領主館執務室】
「カイル様! 大変です!」
ジークが息を切らせて執務室に飛び込んできた。
その手には、小規模事業者たちに届けられたという何通もの通知書が握られている。
「マティアスめ! 支払いが遅れている商人たちに、一斉に『期限の利益の喪失予告』を送りつけてやがる! このままじゃ、工房の設備を引き揚げられる奴らが出るぞ!」
「……やっぱり来たか!」
僕が立ち上がりかけた、その時。
「……お待ちください、カイル様」
エドワードが静かに書類から顔を上げた。
「既存の契約を、領主の判断だけで無効にすることはできません。ですが、商会の主張がすべて正しいと決まったわけでもない」
「……どういうこと?」
「期限の利益の喪失が契約上の要件を満たしているか。支払いの猶予が認められていなかったか。担保設備の引き揚げに必要な手続が守られているか。……確認すべきことはいくつもあります」
エドワードは通知書を一枚取り上げた。
「王国法には、領内簡易裁判所に対して、契約上の権利行使について異議を申し立てる手続があります」
「異議申立て……!」
「ええ。要件を満たす事案であれば、裁判所に設備の引き揚げを一時的に停止するよう求めることもできます。その間に、当事者間で返済計画の再協議を試みるのです」
「それなら、みんなを……!」
「……全員は救えません」
エドワードの声は静かだった。
「適法な請求もあるでしょう。すでに返済能力を失っている事業者もいる。調停を提案したところで、相手に条件変更を強制することはできません」
「……そう、だよね」
「ですが、争う余地のある契約まで、黙って受け入れる必要はない」
エドワードは書類をデスクに置いた。
「まずは通知を受け取った事業者の相談窓口を設けましょう。契約書と支払いの記録を確認し、法的に争える事案を選別する。必要であれば、簡易裁判所への申立てを支援するのです」
「……分かった。ジーク、警備隊からも人を出せるかい? 通知を受け取った人たちを窓口へ案内してほしい」
「おう! 任せとけ!」
「リーザには、職業紹介所と商業ギルドへの連絡をお願いしよう。万が一、工房を失う人が出ても、次の仕事につながるように……」
僕がそう言うと、エドワードはわずかに目を細めた。
「……よろしい判断です、カイル様」
「え?」
「法で守れる者は、法で守る。守りきれなかった者にも、生活を立て直す道を残す。……それこそが行政の仕事でしょう」
僕は小さく頷いた。
かつて人を追い詰めるために法を駆使していた男が、今は人を守るために、その知識を振るおうとしている。
だが、相手もまた、法を知り尽くした商人だ。
この一手が、どこまで通用するのか。
僕たちには、まだ分からなかった。
そして、この時の僕は知らなかった。
マティアスがすでに、エドワードの過去という、もう一枚の切り札を握っていたことを。




