第24話 小さな一歩
【数日後——ノルデン商業ギルド】
「……ギルド長、ちょっと見てもらいてぇものがあるんだ」
商業ギルドの窓口へ、一人の若い革職人がやってきた。
手にしているのは、設備分割購入契約の書類だった。
「小さな工房を開こうと思ってな。道具一式を分割払いで買えるって言われたんだが……」
「……ふむ」
「契約書を読んでも、数字がややこしくてさっぱり分からねぇんだ。損はないって言われたんだけどよ」
「どれ、貸してみろ」
ギルド長は書類を受け取り、しばらく目を通した。
それから机の引き出しを開け、一枚の紙を取り出した。領主館から配布された『標準比較試算表』だった。
「……なんだ、それ?」
「最近、領主館が用意してくれたものだ。分割払いの条件を比較するための表だよ」
ギルド長は説明しながら、契約書に記された金額を順に書き写していった。
設備の本体価格。分割手数料。支払期間。
そして、支払いが遅れた場合に生じる追加負担。
「……少し待っていろ」
ギルド長は算盤を取り弾いた。慎重に数字を確かめ、やがて合計欄へ金額を書き込む。
「……ほれ。これがお前さんの支払う総額だ」
「……ん?」
革職人は表を覗き込み、一瞬動きを止めた。
「……えっ?」
もう一度、目を凝らして数字を見る。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「どうした?」
「この道具、最初は金貨十枚だって言われたんだぞ!?」
「ああ」
「なのに、全部払い終わる頃には……金貨十八枚!?」
「そういう計算になるな」
「はあああ!?」
思わず革職人の声が裏返った。
「八枚も余計に払うってことか!?」
「そうだ。しかも、途中で支払えなくなれば、こちらの条項に従って追加の負担が生じる」
ギルド長が契約書の一節を指差す。
「……お前さん、毎月どれくらいの利益が出る見込みなんだ?」
「え、ええと……最初のうちは、銀貨でこれくらい……」
革職人が差し出した開業計画書に、ギルド長は目を落とした。
「……厳しいな。予定どおり売れても、この支払いはかなり重いぞ」
「……うそだろ」
革職人は契約書を見つめたまま固まった。
少し前まで、念願の工房を開けると胸を躍らせていた。だが、この条件で契約していれば——開業したその日から、支払いに追われることになっていたかもしれない。
「……あぶねぇ」
彼はぽつりと呟いた。
「……知らずに、サインするところだった」
その声はかすかに震えていた。
「ギルド長……ありがとう。もう一度、条件を考え直してみるよ」
「ああ。それがいい。ほかの商会の見積もりも取ってみるといいぞ」
「……そうする!」
革職人は深々と頭を下げると、契約書を大事そうに抱えて窓口を後にした。その足取りは、店に入ってきたときよりもずっと軽かった。
◇
商業ギルドの建物の外。
通りの向かいに立つ一人の青年が、その様子を静かに見つめていた。
深いフードを被った、痩せぎすの青年。
エドワード・フォン・ロッセ。
彼はギルドから出てきた革職人が、晴れやかな表情で街道を歩いていくのをじっと追っていた。
(……あの男は、私たちが作った表を使い、自分で契約の危険性を理解したのですね)
かつての自分ならどうしていただろう。
恐らく、あのような職人を見れば、心の中で鼻で笑っていたはずだ。
数字を理解できない。契約の意味も分からない。それでいて自分の夢だけは大きく語る。そんな人間は、利用するのに都合が良かった。難しい言葉を並べ、もっともらしい説明をし、最後に署名さえさせればいい。相手が後悔したところで、契約書を突きつけて『あなたが自分で署名されたのでしょう?』と一蹴すれば済む。
それが、かつての自分だった。
エドワードは上着の内側へ手を伸ばした。
指先に触れたのは、使い込まれた銀の懐中時計。蓋の裏側には、今も彼の名が刻まれている。
(……私は、あの頃と同じ知識を使っている)
法律、帳簿、契約、複雑な数字の仕組み。
持っている知識は何も変わっていない。変わったのは、その使い道だけだった。
今日ギルドの窓口で使われていた表も、元をたどれば自分がカイルとともに作ったものだ。特別な魔法ではない。契約を無効にする権限もなければ、悪徳商人をその場で裁けるわけでもない。ただ、数字を分かりやすく並べ直しただけ。
けれど。
(……一人、守れた)
エドワードは、遠ざかっていく革職人の背中を見つめた。
あの青年は自分の意思で契約を見直し、知らぬまま不利な条件を背負わされずに済んだ。工房を開くという夢も、まだ失ってはいない。たった一枚の表が、その選択を支えたのだ。
(……こんな使い道があったとは)
胸の奥に、奇妙な感覚が広がっていった。
誰かから金を奪ったときの優越感とも、難しい契約を成立させたときの達成感とも違う。もっと静かで、穏やかなもの。
(……私にも、まだできることがあるのかもしれませんね)
もちろん、これで過去の罪が消えるわけではない。かつて傷つけた人々の暮らしが元どおりになるわけでもない。今日一人を守ったからといって、明日も必ず守れるとは限らない。
それでも。
この仕事には、確かに意味があった。
『……その才能が、誰かを守るために使われるとこ
ろを、見てみたいんだ』
ふと、カイルの言葉が脳裏によみがえる。
エドワードは小さく息を吐き、静かに口角を上げた。
「……悪くない景色ですね、カイル様」
銀の懐中時計を握る指から、ゆっくりと力が抜けていく。
彼はフードを目深に被り直すと、人々の行き交うノルデンの通りへ足を踏み出した。
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