第21話 法律という名の道具
「……リーザ、ごめん。昨日はエドワードと血の契約を結んだばかりだったし、行政指導基準案にも問題が見つかって……」
「それと、夜遅くまでお仕事をなさったことに、何の関係がありますの?」
「……ええと」
言葉に詰まった僕の隣で、エドワードが静かに眼鏡を押し上げた。
「恐れながら、リーザ様。今回の責任は私にもございます。カイル様がお休みになるべきお身体であることを知りながら、議論を長引かせてしまいました」
「まあ……」
リーザが、にっこりと微笑んだ。
「ご自覚がおありでしたのね?」
「……はい」
「では、エドワード様も反省なさってくださいまし。昨日まで満足に歩くこともできなかったお方が、他人の心配をしている場合ではありませんわ」
「……おっしゃる通りです」
エドワードは素直に頭を下げた。
王国法に精通し、僕の書いた行政指導基準案を三秒で論破した男が、リーザの前ではすっかり縮こまっている。
(……なんだか、少し安心したな)
「おいおい、二人揃って説教かよ!」
執務室の隅から、ジークの豪快な笑い声が響いた。
「昨日から何時間も書類とにらめっこしてたんだろ? そりゃ怒られるに決まってるぜ!」
「ジーク、笑い事じゃないよ……」
「ははっ! いや、でもよ」
ジークは机の上に置かれた一枚の羊皮紙を持ち上げた。
「この書類、なかなかいいじゃねぇか」
それは、昨日エドワードと一緒に夜遅くまで練り直した『設備分割購入契約に関する行政指導基準案』だった。
「俺みたいに難しい法律が分からねぇ奴でも、何を確認すりゃいいのか書いてある。これなら、商人に変な契約を押しつけられても気づけるかもしれねぇな」
「……そのように使っていただけるのであれば、作成した甲斐がございます」
エドワードがカップを置いた。
「ただし、ジーク殿。一点だけご注意を」
「あん?」
「この基準は、契約そのものを無効にするものではありません。商人が不当な条件を設けていたとしても、それだけで警備隊が財産を押収したり、契約を破棄させたりできるわけではございません」
「……ああ。勝手に取り締まっちゃいけねぇってことか」
「ええ。そこを取り違えれば、今度は行政側が権限を濫用したと批判されかねません」
ジークは難しい顔をして首をひねった。
「……法律ってのは、本当に面倒くせぇな」
「俺でも分かるぞ」
そのとき、壁際に立っていたローグが、ぼそりと口を開いた。
警備隊の報告に訪れていた彼も、先ほどから話を聞いていたのだ。
「あん?」
「警備隊にも、たまに商人との契約について相談が来るからな。こういう書類があれば、商業ギルドや行政の担当者に案内しやすくなる」
「……お、おう。そりゃそうだろうけどよ」
「少なくとも、警備隊が勝手に契約を取り消せないことくらいは分かる」
「俺だってな……! これくらい……!」
ジークは羊皮紙を覗き込んだ。
「……ぐぬぬ」
「……分かってないだろ」
「わ、分かってるっつーの!」
「だったら説明してみろ」
「そ、それは……商人が悪いことをしたら、その……!」
「その?」
「……くそっ! なんでいちいち聞くんだよ!」
ローグは呆れたように息を吐いた。
「ったく。そのための商業ギルドだろ。俺たちが全部判断する必要はない。まあ、お前も少しは勉強しろ」
「なんだと!? 黙ってりゃ好き勝手言いやがって!」
「事実だろ」
「てめぇ……!」
ジークが勢いよく立ち上がった。
「……やるのか?」
「上等だ!」
「ちょ、ちょっと! 二人とも!」
慌てて間に入ろうとした僕を、エドワードが静かに制した。
「カイル様。お気になさらず」
「いや、気にするよ!?」
「お二人のおかげで、重要なことが分かりました」
「……え?」
エドワードは何事もなかったかのように眼鏡を押し上げた。
「この制度は、法律に詳しくない方にも理解できる説明が必要だということです」
「……誰が法律に詳しくねぇって!?」
「ジーク殿です」
「即答すんな!!」
ローグが小さく吹き出した。
「……ふっ」
「ローグ! てめぇも笑うな!」
僕は思わず苦笑した。
けれど、確かにエドワードの言う通りだった。
どれほど立派な制度を作っても、それを使う人間に伝わらなければ意味がない。
法律に詳しい人間だけが理解できる仕組みでは、領民を守ることなどできないのだから。
「……じゃあ、ジークにも分かるように説明してもらえるかな?」
「カイルまで俺を馬鹿にしてんのか!?」
「そ、そんなつもりじゃないよ!」
「承知いたしました」
エドワードは涼しい顔で頷いた。
「契約で困っている者がいれば、勝手に取り締まらず、商業ギルドへ案内する。その際、契約書や支払いの記録を持参するよう伝える。まずは、それだけ覚えていただければ十分です」
「……おお! そういうことか!」
ジークがぱっと顔を明るくした。
「最初からそう言ってくれりゃ分かるぜ!」
「……護衛の仕事には直接関係ないが、覚えておいて損はないな」
ローグがぼそりと呟く。
「余計なお世話だ!」
再び言い争いを始める二人を見て、僕は小さく笑った。
ジークは僕の護衛だ。契約問題を直接扱う立場ではない。
それでも、彼のように法律に詳しくない人間にも伝わる説明でなければ、制度は十分に機能しないだろう。
「……それで、エドワード。この案でマティアスを止められると思うかい?」
僕が尋ねると、彼はわずかに目を細めた。
「完全には止められないでしょう」
「……そうか」
「マティアスという男は、相当に法律を読み込んでおります。説明義務を課されたと知れば、今度は説明したという形式を整えたうえで、別の方法を考えるはずです」
「……抜け道を探す、ということだね」
「ええ」
エドワードは淡々と頷いた。
「ですが、何もしないよりは遥かに良い。一度でも相手に条件を明示させれば、後から争うための記録が残ります」
僕は机の上の羊皮紙へ視線を落とした。
プリメロたちの店は、もう戻らない。
あの精巧な焼き台も、夢の詰まった店舗も。
けれど。
(……次に同じような契約を結ぼうとする人たちは、まだ守れるかもしれない)
「……よし」
僕は毛布を肩から下ろし、立ち上がろうとした。
「カイル様?」
「……あ」
リーザの声に、動きが止まる。
「決裁が必要なのは分かっておりますわ。ですが、まずはスープを召し上がってくださいまし」
「……はい」
僕は大人しくソファへ座り直した。
隣ではエドワードが、何事もなかったような顔でスープを口へ運んでいる。
「……エドワード。君、笑っていないかい?」
「いいえ、カイル様。滅相もございません」
眼鏡の奥の瞳が、わずかに細くなった。
絶対笑ってるだろ、これ。




