第20話 契約成立
「……カイル様」
「なんだい?」
「普通、このような場面で罪人が契約条件に異議を唱えれば、相手は怒るものですが」
エドワードは、まだ信じられないとでも言いたげ
に僕を見つめていた。
「……どうして?」
「自分が提示した条件に、罪人が口を挟んだのですから」
「でも、間違っているなら直した方がいいだろう?」
「…………」
彼は何か言いかけ、結局、口を閉ざした。
その様子を見ていたジークが、小さく笑った。
「ははっ。こいつ、初めて会ったときからこうなんだよ」
「……そうなのですか」
「おう。変なところで頑固なくせに、筋が通ってりゃあっさり意見を変えやがる」
「……ジーク。それ、褒めているのかい?」
「半分くらいはな」
エドワードの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
◇
それから、僕たちは契約書を一つずつ見直していった。
領民の財産を横領しないこと。職務上の機密を私的な利益のために利用しないこと。権限を悪用して虚偽の公文書を作成しないこと。
いずれも、エドワードが過去に関わってきた不正を繰り返させないための条項だ。
ただし、政策への反対や正当な告発、善意による業務上の失敗まで禁じるつもりはない。
僕が必要としているのは、命令に従うだけの人間ではなく、間違いを指摘してくれる人間なのだから。
「……こちらの文言では、正当な職務上の判断まで契約違反と解釈されかねません」
「……なるほど。じゃあ、こうかな?」
「いえ。まだ曖昧です」
「……厳しいね、エドワード」
「命が懸かっておりますので」
「……それは、そうだね」
僕は苦笑し、羽ペンを握り直した。
曖昧な言葉一つが、彼の生死を左右する。
そう考えれば、妥協できないのも当然だった。
やがて、エドワードの指が、ある条項で止まった。
「……カイル様。これは?」
「僕が守るべき条件だよ」
そこには、領主である僕自身の義務を記していた。
違法な命令を下さないこと。契約内容を一方的に変更しないこと。そして、双方が合意した手続きに従い、職務を離れる権利を認めること。
「……血の契約は、双方の合意で成立するものだろう?」
「……ええ」
「だったら、僕だけが好き勝手できるのはおかしいよ」
エドワードは黙って羊皮紙を見つめていた。
「……あなたは、本当に変わった方ですね」
「そうかな?」
「ええ。罪人を縛るための契約で、ご自身の権限まで制限されるとは」
「だって、君に仕事を任せるんだよ? 僕の間違いを指摘しただけで罰せられるようじゃ、困るじゃないか」
「…………」
「それに、契約で命令に従わせることはできても、信用まで得られるわけじゃないからね」
エドワードが、ゆっくりと顔を上げた。
「……私を、信用なさるおつもりですか?」
「……まだ分からないよ」
僕は正直に答えた。
「君がどこまで信用できる人物なのかは、これから確かめるつもりだ」
「……随分と慎重ですね」
「領主だからね」
僕は小さく笑った。
「でも、君に才能があることは分かる」
昨日、行政指導基準案の欠陥を一目で見抜いたこと。
そして今、自分の命が懸かった契約書を前にしても、冷静に問題点を洗い出していること。
その知性は、間違いなく本物だった。
「……その才能が、誰かを守るために使われるところを、見てみたいんだ」
エドワードの指が、ぴくりと動いた。
「……誰かを、守るために?」
「うん」
僕は頷いた。
「過去にしたことが消えるわけじゃない。君が傷つけた人たちへの責任も、なくならない」
「…………」
「でも、だからといって、これから先も誰かを傷つけ続けなきゃいけない理由はないだろう?」
エドワードは目を伏せた。
長い沈黙が落ちる。
「……私は、あなたが思っているほど立派な人間ではありませんよ」
「……うん」
「恐らく、想像されている以上に、醜いことをしてきました」
「……そうかもしれないね」
「それでも、私を使うと?」
「だからこそ、これからの行動を見たいんだ」
僕は彼をまっすぐ見つめた。
「もちろん、危険がないとは思っていないよ。君の知識が再び悪用されれば、被害を受けるのは領民たちだからね」
机の上には、最後まで残された一つの条件があった。
故意に契約を破った場合、その命を失う。
血の契約における、最も重い代償だ。
「……正直に言えば、僕だってこんな契約は使いたくない」
僕は小さく息を吐いた。
「だから、断ってもいいんだ。身体が回復するまではここで休んでくれて構わないし、旅立つなら食料も用意する」
「……私を、そのまま行かせると?」
「うん。君を助けたのは、契約を結ばせるためじゃないからね」
「…………」
エドワードは、しばらく何も言わなかった。
やがて、机の上の羊皮紙に視線を落とす。
「……カイル様。私には、まだ返せていないものがあります」
「……エドワード?」
「奪った財産。壊してしまった暮らし。そして……取り返しのつかない、人々の時間」
その声は、ひどく静かだった。
「今さら、善人になれるとは思っておりません」
眼鏡の奥で、切れ長の瞳がわずかに揺れた。
「ですが……もし、この知識にまだ使い道があるというのなら」
彼は顔を上げた。
「今度は、人から奪うためではなく、人を守るために使ってみたい」
「……!」
「そのための機会をいただけるのであれば、私はこの契約を受け入れます」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「……ありがとう、エドワード」
「感謝されることではございません」
彼は小さく首を振った。
「これは、私自身が選んだことですから」
◇
エドワードは、契約用の針に細い指先を添えた。
「……本当に、いいんだね?」
「ええ」
彼は静かに微笑んだ。
「これほど念を押された契約は、初めてです」
「……だって、命が懸かっているからね」
「ええ。ですから、私も慎重に選びました」
そう言って、エドワードは指先に針を当てた。
一滴の血が、羊皮紙へ落ちる。
僕もまた、領主としての誓約を読み上げ、血を落とした。
赤黒い魔法陣が、静かに光を帯びる。
描かれていた線が淡い赤の光となって浮かび上がり、二人の間を一度だけ巡った。
やがて、光は何事もなかったかのように消えた。
「……成立、ですね」
「……うん」
僕は深く息を吐いた。
血の契約は成立した。
けれど、これで彼の心まで分かるようになったわけではない。
人を信用するということは、魔法陣一つで済むほど簡単な話じゃないんだ。
それでも。
彼が自分の意思で選んだ、その一歩を大切にしたいと思った。
「……それじゃ、エドワード。まずは昨日の行政指導基準案からお願いできるかな」
「承知いたしました」
彼は眼鏡を直した。
その目に、再び鋭い光が宿る。
「ただし、昨日の案をそのまま使うおつもりなら、三秒で反対させていただきます」
「……まだ駄目なのかい!?」
「ええ。少なくとも、二箇所ほど致命的な欠陥がございます」
「に、二箇所も!?」
横で聞いていたジークが、とうとう吹き出した。
「はははっ! こりゃ大変だな、カイル!」
「笑い事じゃないよ、ジーク!」
そう言いながらも、不思議と嫌な気分にはならなかった。
むしろ、少しだけ心が軽くなった気がした。
僕一人では気づけなかった間違いを、指摘してくれる人がいる。
間違いを認めたうえで、一緒に考えてくれる人がいる。
それは、なんて心強いことだろう。
(……そうか。領主だからって、何もかも一人で正解を出さなくていいんだ)
僕は羽ペンを握り直した。
「じゃあ、さっそく始めようか」
「ええ。まず、この『不当な利益』という表現ですが——」
エドワードが羊皮紙を広げる。
その声は昨日とは違って、どこか生き生きとして聞こえた。
——こうして。
かつて王都で人々を搾取した天才貴族は、ノルデンの領主館で、新たな一歩を踏み出した。
ただし。
僕たちは、このとき一つだけ重大なことを忘れていた。
今日も仕事を休むようにと、リーザから固く言い渡されていたことを。
そして、この後。
僕たち二人は、彼女の笑顔がどれほど恐ろしいものかを、身をもって知ることになるのだった




