第19話 条件
翌朝。
エドワードの体調が落ち着いたことをリーザから聞いて、僕は彼を執務室へ呼ぶことにした。
机の上には一枚の羊皮紙。昨日ジークに見せた、血の契約の草案だ。
けれど、いきなりサインを迫るつもりはなかった。まずはこの契約が本当に必要なのか、そして互いに何を守るべきなのかを、彼自身の言葉で話し合いたかった。
コンコン、と静かなノック音が響く。
「……どうぞ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、昨日畑の脇で倒れていた青年——エドワード・フォン・ロッセだった。
洗い立てのシャツを着て眼鏡をかけた姿は、昨日とは見違えるほど整っている。もっとも、頬はこけたたままで、顔色も褒められたものではないけれど。
「……体調はどうだい?」
「おかげさまで、多少は回復いたしました。温かい食事と寝床を用意していただいたこと、改めて感謝申し上げます」
エドワードは恭しく頭を下げた。
「ですが、カイル様。昨日のお話について、一つ確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「……君の今後のことだね」
「ええ」
眼鏡の奥の瞳が、まっすぐ僕をとらえる。
「本当に、私の知識を使うおつもりですか?」
「……うん」
「私はかつて王都で人々の財産を奪った男です。帳簿を偽り、法の隙間を利用し、己の利益のために他者を踏みにじった」
声は驚くほど静かだった。
「そのような人間を、領主館に置くと?」
「……無条件に信用するつもりはないよ」
僕がはっきり告げると、エドワードの眉がかすかに動いた。
「……ほう」
「でも、昨日も話した通り、君の力を借りたいと思っている。そのために相談したいことがあるんだ」
「……相談、ですか?」
「うん。君に仕事を任せるなら、僕にも君にも、守るべき条件が必要だと思う。ただ、僕一人で決めていいことじゃない。まずは君に見てもらいたいんだ」
差し出した羊皮紙には、赤黒い紋様が幾重にも描かれている。特殊な契約書だ。
それを見た瞬間、エドワードの目がすっと細くなった。
「……これは」
「血の契約だよ」
背後に控えていたジークが、険しい顔で腕を組む。
「お前、こいつが何なのか分かるよな?」
「……もちろんです」
エドワードは静かに頷いた。
「契約者の血を媒介として誓約を魔法に刻む古い術式。定められた禁忌に故意に違反すれば、契約者の生命を奪う——」
そこで一息置き、彼は僕へと視線を戻す。
「……なるほど。私のような人間には、実にふさわしい首輪ですね」
胸の奥がちくりと痛んだ。けれど、目を逸らすわけにはいかない。
「君を罰するために用意したわけじゃない。領主館の権限を悪用されたら、被害を受けるのは僕だけじゃないからね」
「……領民ですか」
「うん。彼らの暮らしを、僕の期待だけで危険にさらすことはできない」
「それで、私の命を担保に?」
「……そういう危険がある契約だということは、分かっているつもりだよ」
僕は静かに首を縦に振った。
「だから、まだ何も決めていない。君が望まないならこの契約を結ぶことはないし、断ったからといって罰するつもりもない」
「…………」
「それに契約が成立したとしても、すぐに重要な権限を渡すわけじゃない。昨日のように公開されている資料から仕事を始めてもらって、少しずつ判断したいと思っている」
エドワードはしばらく黙っていたが、やがて机の上の羊皮紙へ手を伸ばした。
「……拝見しても?」
「もちろん」
彼が契約書を持ち上げ、読み始める。
その瞳から先ほどまでの自嘲めいた色が消え、昨日行政指導基準案の欠陥を見抜いた時と同じ、鋭い知性の光が戻っていた。
「……ふむ」
長い指が、羊皮紙の一節で止まる。
「カイル様」
「なんだい?」
「この契約書、現状のままでは署名できません」
「……なるほど」
ジークが眉を吊り上げた。
「おい。やっぱり何か企んでやがるのか?」
「いいえ。むしろ逆です」
エドワードは淡々と答えた。
「この文言のままでは、私は何も企むことなく命を失う可能性があります」
「……どういうことだよ? お前」
指先で示されたのは、『領主または領民に損害を与える行為を禁ずる』という条項だった。
「例えば、カイル様が公共事業への支出を決定なさったとしましょう。私は財政上の危険を見つけ、その支出に反対した」
「……うん」
「その結果、事業が延期され、予定していた雇用が生まれなかったとする。これは領民への損害でしょうか?」
「……それは」
「あるいは、悪質な商人への行政指導を提案した結果、その商人の利益が減少した場合は?」
答えに詰まる僕に、彼はさらに別の一文を指差してみせた。
「『領主に背く行為』という表現もいただけません」
「……なぜ?」
「領主の判断が、常に正しいとは限らないからです」
静かな声だった。けれど、その一言は深く胸に刺さった。
「仮にあなたが善意から誤った政策を進めようとなさった時、私は反対意見を申し上げる必要があります。たとえ、あなたのお気に召さなくとも」
眼鏡の奥の瞳が、まっすぐ僕を見つめてくる。
「それを『裏切り』と解釈される余地があるのなら、私はあなたに正しい助言をすることができません」
「……」
僕は羊皮紙を見つめ直した。
まったく、その通りだった。
ジークには「意見の相違や仕事の失敗を罰するつもりはない」と説明した。それなのに、肝心の契約書にはその区別が十分に書かれていない。
(……僕は、何をしようとしていたんだ?)
契約の怖さなら、つい先日嫌というほど思い知らされたばかりだ。プリメロたちが店を失った原因だって、相手に有利な条件を押しつける契約だったはずなのに。
(……目的が正しければ、どんな条件でも許されるわけじゃない)
深く息を吐き出す。
領民を守りたいという気持ちに偽りはない。けれど、守るための仕組みが別の誰かを不当に縛るものになってしまったら、僕がベルニッツ商会に感じた怒りと一体何が違うのだろう。
「……ありがとう、エドワード」
「……は?」
今度は彼の方が目を丸くした。
「君の指摘は正しいよ。この契約書には問題がある」
僕は羊皮紙を受け取り、羽ペンを握り直した。
「……書き直そう」
「……書き直すのですか?」
「うん」
彼をまっすぐ見据えて告げる。
「君が安心して反対意見を言えるように。それから、僕が領主として責任を果たせるように」
エドワードは呆然と僕を見つめていた。
命を懸けた契約書を、求められた本人の指摘によって書き直す。彼の知る貴族社会では、きっと考えられない光景なのだろう。
けれど、僕にとっては当たり前のことだった。正しい制度は、一人の思い込みだけでは作れない。たとえ相手がかつて人々を傷つけた男であっても、その指摘が正しいのなら耳を傾けるべきだ。
「……さあ、エドワード」
新しい羊皮紙を広げる。
「君なら、どう書く?」
眼鏡の奥で、エドワードの瞳がかすかに揺れた。




