第17話 彼の指摘
「……え?」
「お気持ちは理解いたしました。ですが、願うだけでは契約書の一文字も変わりませんので」
僕は一瞬、言葉を失った。
そして、思わず笑ってしまった。
「……そうだね」
「ええ。では、現在お困りの案件を拝見しても?」
「もちろん!」
僕は彼を執務室へ案内した。
机の上には、書きかけの行政指導基準案が置かれている。
エドワードはそれを手に取り、ほんの数行読んだところで眉をひそめた。
「……カイル様」
「なんだい?」
「先程も申した通り。失礼ながら、この案では相手の法務担当者に即座に論破されます」
「……ええっ!?」
眼鏡の奥の瞳が、楽しげに細められた。
「ですが、着眼点は悪くありません。少々、手直しをいたしましょう」
そう言って、エドワードは羽ペンを手に取った。
彼は机に置かれた、マティアスの『設備分割購入契約』の概要にも目を通すと、書類の余白に滑らかな筆致で文字を走らせ始めた。
「王国法の上書きはできずとも、領内の行政手続として『明示義務』を課す余地はあります」
「明示義務……?」
「ええ。設備代金、分割手数料、そして『中途解約時における請求額の算定基準』。これらを契約前に書面で明示させるのです」
エドワードは羽ペンを動かしながら続けた。
「さらに、虚偽の説明や悪質な不開示が確認された場合には、相手方に弁明の機会を与えた上で、確認された事実を公示する。もちろん、領主の権限で実施できる範囲を確認し、手続きと判断基準を明文化する必要がありますが」
「……なるほど」
「契約そのものを一方的に無効にすることはできません。しかし、契約条件を事前に明らかにさせれば、少なくとも相手が何も知らないまま署名させられる危険は減らせます」
僕は書き加えられていく文章を、食い入るように見つめた。
王国法を変えることはできない。
すでに成立した契約を、領主の一存で白紙に戻すこともできない。
それでも、これから契約を結ぶ人たちに、判断するための情報を届けることはできる。
そして、悪質な業者の行為を、曖昧な噂ではなく確認された事実として領民に知らせる仕組みも作れる。
「……これなら、マティアスも好き勝手にはできなくなるかもしれない」
「ですが、過信は禁物です。相手も対策を講じてくるでしょうし、書面を読まないまま署名する方もいるでしょう」
エドワードは淡々と言った。
「それに、この方法で過去の被害者が救済されるわけではありません。あくまで、今後の被害を減らすための防護策です」
「……うん」
プリメロの顔が浮かんだ。
彼女の失った店は、この書類一枚では戻ってこない。
それでも。
同じように泣く人を、一人でも減らせるのなら。
「……十分だよ」
「……?」
「十分すぎるくらいだ。ありがとう、エドワード」
エドワードは羽ペンを止めた。
ほんの一瞬、何か言いたげに僕を見つめる。
「……礼を言われるようなことではありません。私がかつて利用していた手口を、逆から眺めただけです」
「それでも、僕には思いつかなかった」
「…………」
「やっぱり、君に頼んでよかった」
そう言って笑った、その直後だった。
「……っ」
エドワードの膝が、がくりと折れた。
「エドワード!?」
身体が大きく傾く。
僕は慌てて立ち上がり、その痩せた肩を抱き留めた。
「おい、大丈夫かい!?」
「……失礼。どうやら……少々、頭を使いすぎたようです……」
「そうだった……! すまない、エドワード!」
「……ええ。ですが、久しぶりに……興味深い問題でしたので……」
青ざめた顔のまま、エドワードは眼鏡を直そうとした。
けれど、その指先さえ頼りなく震えている。
「ほら、座って! いや、横になった方が……!」
「……申し訳ありません。どうにも、足に力が……」
僕が四苦八苦しながら彼を支えていた、まさにそのとき。
ガチャリ。
執務室の扉が開いた。
「……カイル様?」
温かいスープの載ったトレイを手に、リーザが立っていた。
「……あ」
僕は固まった。
リーザの視線が、僕へ向く。
次に、僕の腕に支えられているエドワードへ。
そして、机いっぱいに広げられた書類へ。
「…………」
リーザはにっこりと微笑んだ。
「カイル様?」
「……は、はい」
「お休みになるお約束でしたわよね?」
「……ええと、その……」
「それから、エドワード様も、まだ安静になさる必要があると申し上げたはずですわ」
「……はい」
なぜか僕まで、二人分の返事をしてしまった。
リーザの笑顔は崩れない。
けれど、その瞳からは、すっかり光が消えていた。
「……お二人とも? まずは、スープを召し上がってくださいまし。それから、きちんとお休みいただきますからね」
有無を言わせぬ声だった。
僕の腕の中でふらついていたエドワードが、かすれた声でぼそりと呟く。
「……どうやら、私も共犯のようですね」
「いや、君はそもそも倒れてた病人だからね!?」
「……ですが、仕事を始めたのは私の意思ですので」
「そこで律儀にならなくていいから!」
「……お二人とも?」
「「はいっ!」」
リーザの一声で、僕たちは同時に背筋を伸ばした。
……もっとも、エドワードは立っていることさえままならなかったけれど。
ただし、彼を正式に迎え入れるかどうかは、まだ決まっていない。
僕には、確かめなければならないことがあった。




