第16話 吐き出せた気持ち
僕は懐中時計を握りしめ、ふらつく足取りで廊下を歩くエドワードの背中を追いかけた。
「待ってくれ! ……これを落としたぞ、エドワード」
差し出された銀の時計を目にした瞬間、エドワードの身体がぴくりと強張った。
彼は静かに眼鏡の位置を直すと、薄い唇を開いた。
「……見られましたか」
「……ああ。蓋の裏側の名前も……見えた。『エドワード・フォン・ロッセ』」
息を飲んで見つめる僕に、エドワードは自嘲的な笑みを浮かべ、ゆっくりと目を伏せた。
「ええ、そうですよ。己の知性と立場を過信し、人を支配し、搾取し……すべてを失って王都を追放された愚かな男です。新聞に書かれていた通りですよ」
静かな廊下に、彼の冷たい言葉が響く。
「そのような罪人を、この館に置いておくわけにはいかないでしょう」
「……エドワード」
「どうぞ、お構いなく。介抱していただいた恩は忘れません。ですが、私のような人間と関われば、あなたの評判にも傷がつきます」
彼は一礼し、背を向けようとした。
「……待ってくれ」
「……まだ何か?」
「僕は……君自身のことを、まだ詳しく知らない」
エドワードの足が止まった。
「新聞に書かれていたことが、すべて真実なのかも分からない。でも、もし君が本当に人を傷つけたのなら、その責任や罪は消えないと思う」
「……ええ。承知しております」
「だけど……!」
思わず声が大きくなった。
僕は一度唇を噛み、言葉を探した。
プリメロが泣き崩れた日のことを思い出す。
夢だった店を失い、自分を責め続けていた彼女。
看板を下ろし、ノルデンを去っていった家族たち。
あのとき、僕には何もできなかった。
「……このままじゃ、ノルデンが悲しむ人たちで溢れてしまう」
「…………」
「新しい店ができて、仕事が増えて、街が賑やかになって……僕は、それでみんなが幸せになれると思っていた」
握りしめた懐中時計が、手のひらに食い込む。
「でも、違った。豊かになったからこそ生まれる問題もある。僕が知らなかった仕組みのせいで、夢を奪われる人がいる」
声が、わずかに震えた。
「……嫌なんだ。もう、誰かが泣くのは」
エドワードは何も言わなかった。
ただ、僕を見つめていた。
「僕は領主なのに……みんなを守りたいのに、知らないことが多すぎる」
悔しかった。
どれだけ考えても、どれだけ書類を読み込んでも、僕の手が届かないところで誰かが傷ついていく。
「……僕は、一人しかいない」
ようやく、その言葉を口にできた。
「全部を知ることも、全部を見つけることも、僕一人じゃできないんだ」
僕は顔を上げた。
「だから……君の力が欲しいんだ、エドワード」
「…………!」
彼の目が、わずかに見開かれた。
「君は、法律の抜け道を知っている。数字を使って人を追い詰める方法も知っている。だからこそ、同じ方法で苦しめられる人たちを守る手立ても、見つけられるんじゃないかって……そう思うんだ」
「……私のような人間に、守る仕事を?」
「うん」
「……お人好しですね、あなたは」
エドワードは乾いた笑みを浮かべた。
「私がその言葉につけ込む可能性は、考えないのですか?」
「……考えているよ」
僕は頷いた。
「だから、すぐに君を信用することはできない。正式な役職にも就けられないし、機密資料も渡せない」
「……ほう」
「まずは公表されている資料を使って、君の考えを聞かせてほしい。それを見て、僕も判断する」
エドワードは、しばらく僕を見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……なるほど。感情だけで私を拾うわけではない、と」
「領民を守る責任があるからね」
「……ふふ」
彼は小さく笑った。
「実に興味深い方だ。過去の私なら、その甘さにつけ込んで、あなたの領地を内側から喰い潰していたでしょう」
その言葉に、背筋が冷たくなる。
けれど、僕は目を逸らさなかった。
「……だからこそ、君の仕事を見てみたいんだ」
「…………」
長い沈黙のあと、エドワードは差し出された銀の懐中時計を受け取った。
「……分かりました」
眼鏡を直した彼の瞳に、鋭い光が宿る。
「では、まずはその『悲しむ人を増やしたくない』という願いを、実現可能な制度に落とし込むところから始めましょう」




