第15話 倒れていた男と、一枚の紙
「大丈夫かい!? しっかりして……!」
畑の脇で倒れていた青年を抱き起こすと、痩せこけた体からは想像もつかないほど、不思議と凛とした気品のようなものが感じられた。長い旅路の末、満足な食事も摂れずに倒れ込んだのだろう。
僕は彼を背負い、まだ静まり返った街を急ぎ足で領主館へと連れ戻した。
「カイル様!? 早朝のお散歩のはずでは……その方は一体!?」
「畑の脇で倒れていたんだ。リーザ、温かいスープと毛布を用意してくれるかい? ジーク、執務室の応接ソファに寝かせるのを手伝ってくれ!」
三人で協力して青年をソファに寝かせ、濡れタオルで顔や手の汚れを拭う。
衰弱してはいるものの命に別状はないと分かり、僕はほっと胸を撫で下ろした。
「カイル様、今日はお体を休めるお約束ですわ。スープを持ってきたら、すぐにお部屋へお戻りいただきますからね」
そう言ってリーザが部屋を出ていくと、僕は静まり返った執務室で一人、デスクの羊皮紙を見つめた。
(……分かっている。一人で抱え込むのが間違いだったと、反省したばかりだ)
だが、目の前に置かれた山のような未処理の書類を見つめていると、どうしてもじっとしていられなかった。
リーザに叱られると分かっていながらも、僕はこそっとデスクの椅子に腰掛け、羽ペンを握りしめた。
(分かっているんだ……。けれど、僕が立ち止まっている間にも、誰かが追い詰められているかもしれないと思うと……手を止められないんだ……!)
頭では理解していても、行動が追いつかない。自分の弱さと焦燥感を自覚しながら、僕はマティアスの繰り出す「設備分割購入契約」に対抗するための新しい「行政指導基準案」を書き進めた。
カサリ、と静かな音が響いた。
風にあおられたのか、僕が書きかけのままデスクの端に置いていた未完成の羊皮紙が一枚、床へと滑り落ちた。
「……ん……っ」
かすかな声とともに、ソファに横たわっていた青年が身体をゆっくりと起こした。
その動作には深い疲労が滲んでいたが、洗練された無駄のない身のこなしには、不思議と粗野な印象は一切なかった。
眼鏡をかけ直した青年は、床に落ちた一枚の紙に視線を留めた。
彼はすっと立ち上がると、長い手足を静かに揺らして歩み寄り、床からハラリと紙を拾い上げた。
「この書類……は……」
青年は擦れかけた、けれど透き通るような品のある声で呟き、羊皮紙の文字をじっと見つめた。
その切れ長な瞳に、一瞬で鋭く知的で冷徹な光が宿る。
「……名目を『分割購入』に変えた掠奪型契約に対する、行政側の実態審査指針……ですか。……発想は悪くない。ですが……」
青年は僕の書いた文章を一瞥しただけで、物腰柔らかく、だが容赦のないトーンで言い放った。
「……これでは、相手の法務担当者に三秒で論破されますよ。失礼ながら、王国法への理解が少々足りておられないようです」
「……え……?」
見ず知らずの行き倒れの青年から放たれたあまりに的確で淡々とした指摘に、僕は思わず羽ペンを握ったまま固まった。
「『不当な利益搾取が見られる場合は行政指導を行う』……ふふ、実に甘い作文ですね。『不当』とは、具体的に何を以て判断するおつもりですか?」
青年は細い指先で羊皮紙の文面を軽く叩いた。
「金利ですか? 分割支払いの期間ですか? それとも設備の所有権の移転時期ですか? 基準が客観的かつ厳密に明文化されていなければ、商人側からすれば『領主の個人的な感情や気まぐれで取り締まられている』と主張されるのが関の山です」
「なっ……!」
ぐうの音も出ない僕の反応を見届けると、青年は満足そうに薄く微笑み——その直後、わずかに眉をひそめて身体をグラリと揺らした。
「……失礼。少々、空腹でして」
壁にそっと手を突き、呼吸を整える青年。
頭脳は恐ろしいほど冴え渡っているというのに、身体は今にも倒れそうな限界状態のままである。
青年は眼鏡の位置を指先で直すと、僕をまっすぐ見つめた。
「ですが……アイデアの着眼点自体は、極めて面白い。王国法の制約下でこれだけの仕掛けを考えつくとは……あなたはこの領地の領主様ですか?」
「……ああ。僕がノルデン領主のカイルだよ」
そう答えると、青年は一瞬だけ目を見開いた。
「……そうでしたか。これは、とんだご無礼を」
「いや、いいんだ。それより、君は……」
「申し訳ありませんが、そろそろ失礼いたします」
僕の問いを遮るように、青年は静かに頭を下げた。
「介抱していただき、ありがとうございました。おかげさまで、少し楽になりました」
「待ってくれ。まだ顔色が悪いじゃないか。せめてスープだけでも——」
「……お気持ちだけ、ありがたく頂戴します」
青年はかすかに微笑むと、眼鏡の位置を直した。
「私のような者が、これ以上お世話になるわけにはまいりませんので」
「私のような者……?」
「……いえ。失言です」
それ以上は何も語らず、青年は扉へと向かった。
だが、その足取りは明らかにおぼつかない。
「おい、本当に大丈夫なのかい!?」
「ええ……問題、ありません……」
そう答えながらも、青年は一度、壁に手をついた。
どう見ても問題だらけだった。
僕が慌てて立ち上がった、その時だった。
——カチャン。
小さな金属音が、廊下に響いた。
「……ん?」
青年が去っていった扉のそばに、銀色の懐中時計が落ちていた。
「時計……?」
拾い上げると、使い込まれた銀の蓋には細かな傷が刻まれていた。それでも、丁寧に磨かれているのが分かる。
落ちた拍子に留め具が外れたのか、蓋がわずかに開いていた。
僕は壊れていないか確かめようとして——その裏側に刻まれた文字に、思わず息を呑んだ。
『エドワード・フォン・ロッセ』
(……エドワード?)
どこかで聞いたことのある名前だった。
そして、次の瞬間。
(……まさか!)
以前、片付けていたときにみつけた古い新聞の見出しが脳裏によみがえった。
権力と知性を利用して人々を搾取し、失脚した貴族。
王都を追放されたという、あの男。
(あの青年が……エドワード・フォン・ロッセ……!?)
僕は懐中時計を握りしめ、慌てて廊下へと飛び出した。




