第12話 広がらない手、重なる紙
新しく制定した『事業登録および契約事前開示に関する行政規則』の告示を出してから、執務室の空気は一変した。
「カイル様、商業ギルドから新しい契約の届出書が届いております!」
「カイル様! 明日の会計講習会ですが、参加希望者が予定の倍を超えてしまいました! 会場はどういたしましょう!?」
「ベルニッツ商会から、貸金業者登録の審査基準について異議申し立てが来ています!」
朝から晩まで、誰かが執務室の扉を叩いていた。
机の上には届出書や申請書が積み重なり、確認を終えた書類を片づける間もなく、次の束が運び込まれてくる。
「講習会は商業ギルドの広間を借りよう。参加者が多いなら、午前と午後に分けてもいい。ギルド長には僕から手紙を書くよ」
「かしこまりました!」
「それから、ベルニッツ商会の異議申し立ては、先に申請書と照らし合わせておいて。審査基準のどの部分に異議があるのか、整理してもらえるかな」
「はい!」
指示を出し終えると、僕は再び羽ペンを取った。
リーザや事務官たちも懸命に働いてくれている。届出の受付や書類の整理、講習会の準備といった仕事は、少しずつ任せられるようになってきた。
けれど、契約条項の解釈や財務内容の精査となると、そうはいかなかった。
法律を学んだ者も、商売の帳簿を十分に読める者も、ノルデンにはまだ少ない。
結局、判断の難しい書類は僕の机に戻ってくる。
(……僕が目を通さないと)
ひとつ判を押せば、誰かの商売が始まる。
ひとつ見落とせば、また誰かが不利な契約を結ばされるかもしれない。
そう思うと、簡単には手を止められなかった。
もっとも、忙しさに見合うだけの成果も出始めていた。
先日の会計講習会では、若い職人が嬉しそうに声をかけてきた。
「領主様! 教えいただいた通りに収支表を書いてみたんです。そしたら、今の売上見込みじゃ毎月の返済で手いっぱいで、生活費がほとんど残らないって分かって……」
職人は照れくさそうに頭をかいた。
「危なかったです。もう少し金を貯めて、計画を立て直してから店を出すことにしました!」
「そうか。それはよかった」
「へへっ。今までだったら、借りられるってだけで飛びついてましたよ」
その笑顔を見たときは、心から嬉しかった。
開業を諦めたわけではない。今はまだ早いと、自分で判断できたのだ。僕が作った収支表が、その判断の助けになった。
こうした人が一人でも増えてくれれば、制度を作った意味がある。
同時に、これまで僕が見落としていたことにも気づかされた。
ノルデンは、ついこの間まで貧しい街だった。日々の食事を用意するだけで精いっぱいだった人々に、帳簿の付け方や借入金の返済計画を学ぶ機会など、ほとんどなかったのだ。
契約書に何が書かれているのか。
毎月の支払いが、暮らしにどれほどの負担をかけるのか。
売上が予想より少なかったとき、どうなるのか。
そんなことを、誰も教えてくれなかった。
(……僕は、街を豊かにすることばかり考えていたんだな)
仕事を増やし、商売を盛んにすれば、人々の暮らしはよくなる。もちろん、それは間違っていない。けれど、商売ができるようになったからといって、誰もが商売の危険を理解しているわけではないのだ。
プリメロも、ディアナも、ただ自分たちの店を持ちたかっただけだった。
あの二人が最初から収支表作り、契約の内容を確かめられていたなら、何か違っていただろうか。
今さら考えても、失った店は戻ってこない。
それでも、同じ思いをする人をこれ以上増やしたくなかった。
(……この仕組みは、必要なんだ)
僕は机の上の書類を引き寄せた。
知らなかったというだけで、夢を失うような街にはしたくない。そのためなら、まだ頑張れる。
そう思っていた。
だが、マティアスも黙って規則に従うつもりはないらしかった。
「カイル様、少々よろしいでしょうか」
午後になって、リーザが一通の書類を持ってきた。
「ベルニッツ商会から提出されたものなのですが……どうにも気になる文言がございまして」
「見せてくれるかい?」
受け取った書類に目を通す。
ノエルの名で提出された契約書には、見慣れない言い回しがいくつも並んでいた。
『本契約は金銭の貸付ではなく、設備の共同購入および使用料の分割払いを目的とするものであり、融資契約には該当しない』
「……なるほど。そう来たか」
「何か問題がございますの?」
「貸金業者への規制を避けるために、契約の名前を変えたんだと思う」
以前の契約では、商人に設備を購入させ、その代金を分割で支払わせていた。今度は設備を共同で購入したことにして、商人がベルニッツ商会へ使用料を払う形に変えている。
書類の上では、確かに金銭の貸付とは違って見えた。けれど、名前を変えたからといって、取引の実態まで変わるとは限らない。
「問題は、誰が設備を所有して、誰がどんな負担を負うかだね。支払いが滞ったときの条項も確認しないと」
「では、こちらも審査を?」
「うん。ただ、規則の対象になるかどうかは、契約全体を見て判断する必要がある。共同購入そのものが悪いわけじゃないから」
僕は書類をめくった。
所有権の取り決め。使用料の算定方法。契約を解除する場合の違約金。細かな文字で書かれた条項を追っていくうちに、眉間に皺が寄った。
「……また、随分と面倒なものを考えたな」
抜け道を塞げば、別の道を探してくる。
こちらが新しい契約の仕組みを理解し、問題のある部分を見つけるまで、相手はいくらでも書類を持ち込める。マティアスにとっては商売を続けるための一手でも、僕たちにとっては、そのたびに審査の仕事が増えることになる。
「……カイル様」
「ん?」
「少し、お休みになってはいかがですか?」
「これを確認したら休むよ」
「先ほども、そうおっしゃいました」
顔を上げると、リーザが心配そうに僕を見つめていた。
「昨夜も、ほとんど眠っていらっしゃいませんでしょう?」
「大丈夫だよ。まだ仕事はできるから」
「ですが……」
「心配してくれてありがとう、リーザ。もう少しだけ頑張らせてほしい」
リーザは何か言いかけ、結局、小さく息をついた。
「……どうか、ご無理だけはなさらないでくださいませ」
「うん。分かっているよ」
そう答えて、僕は再び書類に目を落とした。
自分では、本当に分かっているつもりだった。




