第11話 爪痕と新しいルール
『あんなに売れていたのに……急に店を畳んじゃうなんてな……』
『俺も新しい店を出したいと思ってたけど、なんだか怖くなっちまったよ』
『ディアナちゃん、体調は大丈夫かねぇ……可哀想に……』
「っ……!」
看板の裏返された「ディアナのクリーム焼き」の店の前。立ち止まる僕の耳に、通り過ぎる領民たちの不安げな声が突き刺さる。
胸の奥がキュッと締め付けられるように息苦しくなった。
大通りの一角から甘い香りが消えてから、数日が過ぎた。
空っぽになった店内には、すでにベルニッツ商会によって次の店主へ売り渡されることを示す張り紙が出されている。
マティアス・ベルニッツは、一切の不法行為を犯していない。
法律を守り、契約に基づき、自らの利益を整然と回収しただけだ。
だからこそ、僕の作った表面上の賑わいが、人々の夢を奪い、街全体に冷たい不信と恐怖を撒き散らしてしまったのだという事実が、消えない痛みとなって胸を刺し続ける。
(僕が作ろうとしたのは、人々が自由に夢を追いかけられる街だった。でも……)
仕組みや知識を持たない者にとって、『自由』はただの牙になり得るんだ。
逃げるように執務室へ戻った僕は、荒い息を吐き出しながら机に向かい、羊皮紙にいくつもの文字を書き殴っていた。
「カイル様、またお一人で根を詰めていらっしゃいますの? お顔色が真っ白ですわ……! どうか無茶なさらないでくださいまし」
ドアをノックして入ってきたリーザが、温かいお茶の入ったカップをデスクの端に置き、胸を押さえる僕をたまらず制止しようと手を伸ばす。
だが、僕は首を振った。
「いや、あと少しだけ……、もう少しなんだ……っ!」
握りしめた羽ペンに、バキバキと力がこもる。
ここで僕が立ち止まれば、また次の被害者が出る。
「リーザ……。僕はね、二度とプリメロやディアナのような犠牲者を出したくないんだ。そのために、この街に新しい行政ルールを作ろうと思っている」
「行政の……ルール、ですか?」
「ああ。王国の法律そのものを僕の独断で変える権限はない。だが、ノルデン領内の『行政規則』としてなら定められるはずだ」
まずは、領地内で融資や出資を行う業者に登録を義務付け、危険な特約条項の事前開示を求める『登録・届出制』を導入する。
羊皮紙に書き連ねた案を指し示す。
「そしてもう一つ……これが一番重要だ。これからは、資金を借りて開業しようとする事業者に、契約前の一枚の『事業収支表』の提出を義務付ける。毎月の売上見込み、材料代、家賃、人件費、そして返済額を、自分の手で表に書き出してもらうんだ」
リーザが首をかしげた。
「表を一枚書くだけで……そんなに変わるものなのですか?」
「変わるよ。プリメロたちが陥ったのは『売上は出ているのに現金が残らない』という黒字破綻の罠だった。将来の数字を正確に予測することはできなくても、毎月の返済額を可視化できれば『あ、これじゃ生活費すら残らない』と、借りる前に自分で危険に気づくことができる」
制度の目的は、借金や挑戦を禁止することじゃない。
リスクを正しく理解した上で、安全に夢へ挑戦できるようにすることだ。
「難しいことはよくわねぇが……要するに、あのマティアスって野郎みたいなやつが、好き勝手できねぇようにするんだな?」
それまで黙って話を聞いていたジークが、腕を組みながら口を開いた。
「そうだね。似たような……いや、もっと悪質なやり方をする業者が現れる前に、手を打っておきたいんだ」
僕は頷きかけて、ふと首を横に振った。
「……ただ、ジーク。ひとつ忘れちゃいけないことがある」
「あん?」
「マティアス殿からお金を借りた人たちの中には、そのお金で店を開いて、今も順調に商売を続けている人もいるんだよ」
「……ああ? あんな野郎から借りて、うまくいってるやつもいるのか?」
「いるんだ。だから、そこは分けて考えなきゃいけない」
僕は机に広げた収支表へと視線を落とした。
「お金を貸すこと自体が悪いわけじゃない。手元に資金がなくても、借りたお金を元手に商売を始められる。それは、この街にとって大切なことなんだ」
「……なるほどな」
「僕が防ぎたいのは、借りる人が危険を理解できないまま、返せなくなったときにすべてを失ってしまうような契約だよ」
ジークはしばらく考え込んだあと、頭をがしがしとかいた。
「……難しいな。悪いやつをぶっ飛ばすだけじゃ、どうにもならねぇってことか」
「そういうこと」
僕は苦笑した。
「だからこそ、誰が貸しても、誰が借りても、危険を見落としにくい仕組みが必要なんだ。商人や領民に向けた基礎的な会計講習会も開く。そして行政の内部には、これら契約書の届出審査と苦情受付を行う小さな『金融法務担当』の窓口を置くつもりだよ」
リーザは僕の提示した案をじっくりと読み込み、深く感心したように頷いた。
「素晴らしい考えですわ、カイル様! これなら、マティアス様のようなやり口を未然に防ぐことができますわね」
「……だがね、リーザ。これには大きな壁があるんだ」
僕は深く息を吐き出し、背もたれに体を預けた。
「……壁、ですか?」
「王国法との折り合いをつけながら行政規則を組み立て、提出された収支表や契約書を精査するには、高度な財務と法務の知識が必要だ。マティアス殿のような老獪な商人は、ちょっとしたルールの隙間を見つければ、すぐさま潜り込んでくるだろうからね」
前世の知識を持つ自分ですら、今回は手も足も出ずに敗北した。
制度を作るだけではダメだ。それを運用し、法律の壁と戦いながら、老獪な商人たちと対等以上に渡り合える「本物の行政の専門家」がいければ、このルールも形骸化してしまう。
(……人材が足りない。財務と法務を熟知し、この行政規則を完璧に運用できる人が、喉から手が出るほど欲しい……!)
人材不足を痛いほど自覚しながらも、今、この街を守れるのは自分しかいないのだ。
「カイル様……どうかご無理だけは……」
「大丈夫……大丈夫だから。僕がやらなきゃいけないんだ……」
酸欠になりかけた頭で、僕は引き止めるリーザの声を振り払うように、ひたすら羊皮紙にペンを走らせ続けた。
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