第10話 救える者、救えない者
ベルニッツ商会を後にした帰り道、足取りは鉛のように重かった。
秋風が吹き抜けるノルデンの大通り。行き交う人々の活気ある笑い声が、今の僕にはひどく遠く、どこか虚ろなものに聞こえた。
「悔しいが、俺の『危機察知』も……反応しなかった」
隣を歩くジークが、悔しそうに拳を握り締めながら呟いた。
「ジーク……」
「敵の襲撃や殺気なら、遠くからでも頭の後ろがピリピリする。なのに、なんだありゃ? ……どろりとした嫌な感じだけが、ずっと胃の底にへばりついてやがる」
ジークの言葉に、僕は深く頷くしかなかった。
マティアスは剣を抜けと言ったわけでも、殺気を放っていたわけでもない。むしろ終始、親切で温和な笑顔を浮かべていた。だからこそ、武人の「危機察知」すら捉えられない——制度と法律というルールの中で首を絞めてくる、最悪の脅威なのだ。
(何もできなかった……。僕は領主でありながら、法律と仕組みの罠の前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった……)
執務室に戻った僕は、一瞬だけ椅子に沈み込んだが、すぐにパンッと自分の頬を強く叩いた。
(落ち込んでいる暇はない。いま、僕が止まったら、本当に全員が潰れてしまう)
僕はすぐさま全領内の新店舗に関する申請書と、ベルニッツ商会から資金を借り入れている事業者の実態調査を命じた。
数日後、手元に集まった調査結果は、想像以上に凄惨なものだった。
「……現在、商会から融資を受けている店舗は二十余件。そのうち、すでに手元の現金が行き詰まりかけている店が半数を超えています」
報告に来た部下の言葉に、息が詰まる。
雑貨屋のマルクのように過剰な仕入れで資金繰りが悪化した者、需要のない場所で無謀な開業をした者……。
「カイル様、プリメロたちの店はどうされるおつもりですか……?」
リーザが痛ましそうに尋ねる。
本業の収益性が高かったプリメロたちの「クリーム焼き専門店」。だが、現実はそれ以上に酷だった。
「……診療所の医者から報告があったよ。ディアナは極度の過労と栄養失調による高熱で……数ヶ月単位の長期療養が必要だと」
「そんな……」
「プリメロ一人じゃ、あの量の仕込みも焼き作業も回せない。返済どころか、日々の営業すら続けられないんだ……」
公金での直接肩代わりは、領主としての公正さを捨てることになる。
そして——体調を崩したディアナを抱え、営業継続すら不可能となったプリメロたちには、もはや店を手放すという選択肢しか残されていなかった。
特約条項に基づき、あの店も、精巧な焼き台も、すべてベルニッツ商会へと回収されることが決まった。
——数日後。執務室を訪れたプリメロと、僕は向き合っていた。
「……ごめんね、プリメロ。僕が……僕がもっと早く、仕組みの危険性に気づいていれば……!」
「ううん……カイル様は、悪くないよ……」
プリメロは小さく首を横に振った。
「……あたしが、馬鹿だったから……」
「プリメロ……?」
「ちゃんと契約書を読んで……お金のことも、もっと勉強して……ちゃんと分かっていたら……!」
震える声が、次第に大きくなっていく。
「ディアナだって……あんなに無理しなくて済んだのに……! あの子、ずっと笑ってたんだよ……? 大丈夫って……もっと頑張れるって……!」
プリメロは両手で顔を覆った。
「なのに……あたし、何にも分かってなくて……っ!」
「……プリメロ」
「あたしが馬鹿だったから……! ディアナのお店も、あの子の夢も……全部……っ!」
とうとう言葉にならなくなり、プリメロはその場で泣き崩れた。
「……あああああ……っ!」
僕は、何も言えなかった。
彼女たちが初めて店を開いた日のことを、覚えている。
あんなに嬉しそうに笑っていた二人が。
自分たちの力で、ようやく掴んだ夢だったのに。
その夢を失った少女が、今、目の前で自分を責め続けている。
僕はただ、固く拳を握り締めることしかできなかった。
◇
大通りを歩くと、プリメロたちの店の看板はすでに外されていた。
数日後には、ベルニッツ商会の手によって新しい別の店主へと売り渡されるという。
さらにその周辺でも、いくつかの店の看板が下ろされ、住み慣れたノルデンを去っていく家族の馬車があった。
行政として僕にできたのは、破綻した店主たちが残った個人負債に押し潰されないよう法的な整理を手伝い、療養するディアナとプリメロの生活のために、領地の公共事業での雇用を手配することだけだった。
(僕が作った『豊かさ』が、この惨劇を生んだんだ……)
去っていく馬車と、空っぽになったプリメロたちの店舗を遠くで見つめながら、僕の拳にはさらに強い力がこもった。
爪が手のひらに食い込み、じわりと血が滲む。
(二度と……二度とこんな悲劇を繰り返させない。そのためなら、僕はどんな仕組みでも作ってみせる……!)




