第9話 契約書は嘘をつかない
ディアナが眠る診療所で容態が安定したことを確認した僕は、ジークを護衛に伴い、大通りの華やかさから取り残された裏通りへと向かった。
「カイル、顔色が酷いぞ。おい、そのベルニッツって商人が悪党なら、いざとなったら俺が力ずくでぶっ倒してやるからな!」
「物騒な真似はやめておくれよ、ジーク……。相手は一応、正規の書類を交わして商売をしている商人なんだ。殴って解決するなら苦労はしないよ……」
腰の剣に手をかけながら頼もしく胸を張るジークに、僕は引きつった笑いを返しつつ、深い溜め息をついた。
そう、武力で解決できるならどれほど楽か。
看板のない真新しい雑居店舗。その重い木製扉を押し開ける。
「これはこれは領主様。どうかされましたか?」
室内の奥、質の良い執務机に腰掛けた男が、極上の笑みを浮かべて顔を上げた。
上質な生地の服を着こなし、柔らかな西方訛りの口調で僕を迎える男——マティアス・ベルニッツである。傍らには、帳簿を抱えた眼鏡の青年ノエルが静かに控えていた。
僕は一度、深く息を整えた。
「……話があって来ました」
僕は机へと歩み寄り、プリメロから預かった契約書の写しを広げた。
じ……っと、羊皮紙に並ぶ細かい文字に目を走らせる。
前世の知識がある僕には、書かれている意味が正確に理解できた。
だが……プリメロやディアナ、そしてこの街で資金を借りた他の人々は、これを全文理解できていたのだろうか……?
羊皮紙の最下部、特に小さくびっしりと書かれた注記に目を配る。
「……この部分だけ、文字が小さい理由はなんだい?」
「ああ! なにせ紙に収まりきらなかったものですから、小さくなってしまったんですよ。でも——」
マティアスは心底申し訳なさそうな顔で手を振ってみせ、すぐに薄く笑った。
「契約書を隅々まで読むのは当然……ですよね? ちゃんとご本人様方から、納得の上でサインも頂戴しております」
「説明は十分にしたんですか、マティアスさん」
「ああ! それですか。それはこちらのノエルが『ちゃんと』説明いたしました」
マティアスに振られたノエルが、寸分の狂いもない動作で静かに一礼する。
「はい。返済スケジュールおよび特約条項につきましては、概要をお伝えしております」
「概要……? なるほど。でも、この小さい文字の条件まで『全部』説明したとは言い切れないんじゃないか?」
僕の問い詰めるような視線を受け止めても、マティアスは眉ひとつ動かさなかった。
「聞かれなかったもんで。ちゃんと『理解』していただけたのかと」
「っ……!」
マティアスは親身な面持ちのまま、肩をすくめた。
「『分かりました』とおっしゃって署名されたんですから、わてらとしては『理解された』と思うのが当然でしょう? まさか『分かりません』と嘘をついて署名されたなんて、思いもしませんやんか」
息が詰まる。
あえて自分からは詳細を語らず、知識のない相手が「分かった」と頷くのを待つ。
契約の建前を完璧に利用した、極めて狡猾なやり口だ。
(くそっ……! 少なくとも、今ある領内の法の条文と現行の制度だけでは、即座に明確な違反を指摘することは難しい……!)
背後でジークが不穏な気気配を察し、ぐっと柄を握り直すのが伝わってくる。だが、ここでジークが手を出せば、こちらが「暴力を振るう悪徳領主」になってしまう。
「……領主様がどうしてもとおっしゃるなら、もちろんご一考いたしますよ?」
マティアスは楽しそうに目を細め、細い指を立てた。
「彼女たちの残債と利息、それから設備費……すべて合わせて『金貨五十枚』。いまここで、領主様が代わりに全額お支払いいただけますかい?」
「五十枚……!?」
金貨五十枚。僕個人の資産や、毎日生成している高純度魔石を売り払えば、払えない金額ではない。
——だが、それをやった瞬間に、領地経営は終わる。
(僕が私財や公金で特定の店だけを救済すれば、『なぜあの店だけを助けるのか』と他の借り手から不満が爆発する。真面目に自力でやりくりしている商人たちからの信頼も失われ、さらには『困れば領主が借金を肩代わりしてくれる』という最悪の前例を作ってしまう……!)
「……手出しできないでしょう? 領主様」
マティアスの声から甘さが消え、冷徹な商人の本性が覗く。
「わてらは、ルールに従って商売をしとるだけです。街を豊かにし、人々に夢を見させたのは……他ならぬ、カイル様、あなたですよ」
胸を刺す言葉に、僕は一言も言い返すことができなかった。




