第13話 届かぬ知らせ
夜更け。
執務室には、ランプの明かりだけが残っていた。
窓の外はすっかり暗くなり、廊下から聞こえていた事務官たちの足音も、いつの間にか途絶えている。机の上には、まだ確認していない書類が積まれていた。
僕はその一枚を取り、羽ペンを走らせた。
(……僕ならできる)
前世では、一国の経済を立て直した。恐慌に揺れる日本で、財政と金融の舵を取り、難しい決断を幾度となく重ねてきた。あの頃は、目を通すべき資料も、考えなければならない問題も、今とは比べものにならないほど多かった。それでも、何とか乗り越えてきたのだ。
(これくらい、なんてことないさ)
ここは小さな領地だ。前世で背負っていた責任に比べれば、扱う金額も、関わる人の数もずっと少ない。経験も知識もある。あの頃にできたことが、今の僕にできないはずはない。
(……もう少し。もっと頑張れる)
書類の端に数字を書き込み、計算を確かめる。
ところが、何度見直しても合計が合わなかった。
「……おかしいな」
もう一度、最初から計算する。今度は合った。どうやら、単純な足し算を間違えていたらしい。
こんなところで間違えるなんて、疲れているのだろうか。
僕は目頭を押さえた。頭の奥がずきずきと痛む。肩も重い。
そういえば、今日は昼食を取っただろうか。考えてみても、よく思い出せなかった。
(……いけないな)
少し休んだ方がいい。それくらいは分かっている。
(……あと一件だけ)
そう思って、次の書類を取った。
しばらくすると、文字が妙に読みにくくなってきた。ランプの明かりが足りないのかと思い、燭台を近づける。けれど、文字は相変わらず霞んでいた。目を細めると、今度は二重に見える。
「……はは。参ったな」
小さく笑って、額に手を当てた。熱い。少し熱があるのかもしれない。
それでも、寝込むほどではないだろう。前世では、もっと忙しかった。何日も気の休まらない日が続いたことだってある。あの頃を思えば、これくらいで弱音を吐くわけにはいかない。
(僕ならできる……もっと、もっと……)
羽ペンを握り直す。ところが、指先が思うように動かなかった。書きかけの文字が歪み、羊皮紙の上に黒いインクがぽたりと落ちる。
「……あれ?」
書き直そうとしたが、また線が曲がった。手が震えている。
僕は左手で右手首を押さえ、どうにか文字を書き終えた。
こんな状態で書類を作ってはいけない。間違った判断をするくらいなら、休むべきだ。頭では分かっていた。
けれど、手を止めようとすると、あの日の光景が浮かんでくる。
『あたしが馬鹿だったから……!』
泣きじゃくるプリメロ。青白い顔で姉に寄り添うディアナ。看板を外され、がらんとした店。
二人がどれほどあの店を大切にしていたのか、僕は知っている。それなのに、守れなかった。
(……また、あんなことになったら)
目の前にある契約書も、誰かの人生に関わっている。僕が見落とせば、また店を失う人が出るかもしれない。家族を養えなくなる人がいるかもしれない。そう考えると、どうしても席を立てなかった。
(やらなきゃ……)
僕は領主なのだ。この街を豊かにすると、人々の暮らしを守ると約束した。その僕が、疲れたからといって仕事を放り出していいのだろうか。
いや、違う。
仕事を任せられる人材を育てなければならないことも、僕自身が休む必要があることも、十分に分かっている。前世では、大勢の人間と仕事をしてきたのだから。
(……今日だけだ)
この山を片づけたら、明日は早く休もう。講習会の仕事も、少しずつ事務官たちに任せていこう。
だから、今夜だけは。
「……っ」
突然、頭の奥を鋭い痛みが走った。思わず机に肘をつく。
心臓が妙に速く打っていた。息を吸っても、胸の奥が落ち着かない。
しばらく目を閉じていると、少しだけ楽になった。
(……大丈夫)
僕なら、まだやれる。
そう自分に言い聞かせ、もう一度羽ペンを持った。
そのとき、扉が開いた。
「……カイル様?」
リーザだった。手には、温かい飲み物を載せた盆を持っている。
「まだ、お仕事を……?」
「ごめん。もう少しで終わるから」
顔を上げて答えたつもりだった。けれど、リーザの表情がさっと変わった。
「……あなた?」
「ん……?」
「お顔が……ひどく赤いですわ」
リーザが盆を机に置き、急いでこちらへ回ってきた。額に触れた彼女の手が、ぴくりと震える。
「熱い……! カイル様、こんなにお熱が……!」
「……少し、疲れただけだよ」
「少しどころではありません!」
珍しく強い声だった。
「もうお休みくださいませ。お願いですから……!」
僕は笑って安心させようとした。大丈夫だよ、と。そう言おうとしたのに、うまく声が出なかった。
リーザの顔が、妙に遠く見える。視界の端が黒く滲み、彼女の輪郭がゆっくりと歪んでいった。
(……あれ……?)
何かがおかしい。そう思った瞬間、手から羽ペンが滑り落ちた。
乾いた音が、机の下で響く。
「カイル様……?」
身体を起こそうとした。けれど、腕に力が入らない。
足元がふっと消えたような感覚に襲われ、僕は椅子から崩れ落ちた。
「カイル様っ!」
リーザの叫び声が響いた。
床に倒れた僕の身体を、彼女が必死に支えようとしている。
その声を聞きつけたのか、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「どうした、リーザ!?」
扉を押し開けたジークが、僕の姿を見て息を呑んだ。
「カイル……? おい、カイル!」
肩を揺さぶられる。返事をしなければ。心配しなくていいと、伝えなければ。
けれど、唇は動かなかった。
(……まだ、仕事が……)
机の上には、書きかけの書類が残っている。あれを終わらせなければ。明日には、また新しい申請が届くのだから。
「カイル! しっかりしろ!」
ジークの声が遠ざかっていく。リーザが何かを叫んでいた。
その言葉を聞き取ることもできないまま、僕の意識は暗闇の中へ沈んでいった。
◇
深い、深い闇の中にいた。
頭の奥で、カチカチと時計の針が刻むような音が聞こえる。
無数の羊皮紙、数字の羅列、契約書の細かな注記、そして泣き崩れる少女の叫び声……それらが渦を巻いて僕の頭を締め付けていた。
(起きなきゃ……。まだ……審査が終わっていない書類が……)
もがこうとしても、体が鉛のように重く、指一本動かすことができない。
◇
領主館の執務室前は、早朝から不安を抱えた商人や領民たちでごった返していた。
「頼む、領主様に取次ぎをしてくれ! ベルニッツ商会に返済条件の見直しを頼んだんだが、応じてくれねぇんだ! 返済期日は明日なんだよ! 領主様に行政の相談に入ってもらわねぇと、うちも店を取られちまう!」
「静かにしろ! 順番を守れ!」
押し寄せる群衆の前で、ジークが巨躯をそびえ立たせ、力強い声で場を制していた。暴動や過度な混乱が起きないよう、商人たちの安全と秩序を警備隊長として必死に守っているのだ。
一方、執務室内では、リーザが鬼迫の指示を飛ばしていた。
「定型的な変更届出は第三窓口へ! 苦情の整理と相談票の受付は事務官二人で分担してください! 緊急性の高い案件から順に整理しますわ!」
リーザは事務官たちをテキパキと指揮し、山のような書類を可能な限り処理していた。
だが——どんなに二人が優秀であっても、越えられない壁があった。
(定型の事務処理や案内なら、私たちでも処理できますわ。けれど……)
リーザは、デスクの上に置かれた数枚の特殊な届出書を見つめ、苦く唇を噛んだ。
ベルニッツ商会から提出された「設備分割購入契約」の届出書。
形式上は新規則の届出要件を満たしているように見えても、実態が不当な利息搾取や掠奪型融資にあたるのかどうか——その高度な法理判断と財務精査だけは、カイル以外の誰にも判断できなかった。
行政による専門的な調停や指導が出せない以上、商人たちの相談に乗りたくとも、法的な介入を行うことができないのだ。
「……酷い有様だな」
廊下の喧騒を整理し終えたジークが執務室に戻り、深く溜め息をついた。
「リーザ、俺たちにできる手配は全部やってるが……一番肝心な『法的な判断』と『交渉の仲介』だけは、どうしても手が届かねぇ」
「ええ……。カイル様が規則を作ってくださったおかげで、届出の受付や整理は仕組みとして回っています。ですが……あの方の頭脳代わりになれる人間だけが、ここにはおりませんの……」
リーザは胸の前で細い手を強く握り締め、冷たくなったカイルのベッドの方向を見つめた。
カイルが整備した「届出制」と「相談窓口」という仕組み。
有能な部下たちが現場を支えているからこそ行政そのものは崩壊していないが、決定的な「専門判断」の滞りによって、追い詰められた商人たちの悲鳴を受け止めきれずにいた。
◇
ベルニッツ商会の執務室では、マティアスが優雅に紅茶のカップを傾けていた。
「ほう……領主様が過労で倒れられた、と」
傍らのノエルが、寸分の狂いもない動作で報告を続ける。
「はい。行政側の受付自体は機能しておりますが、複雑な契約形態に対する個別の聞き取り調査および行政指導・仲介手続につきましては、事実上の停滞状態となっております」
「ふふっ……カイル様もお若い。志は立派やが、行政ちゅーのは制度を作って終わりやありません。それを動かす人間がいなければ、相談すら乗れんのです」
マティアスは窓の外、不安に揺れるノルデンの街並みを見下ろし、薄く笑った。
「わてらは正当に『届出』を出して商売をしております。行政からの明確な法的指摘や仲介が入らない以上、契約通りの期日で手続きを進めても何ら問題はありませんな。ノエル、進められる契約はすべて予定通り進めてしまいなはれ」
「承知いたしました」
行政が相談・調停の機能を果たせない間にも、刻一刻と契約の期日は迫っていく。
有能な側近たちが必死に防波堤を維持しようとする中で、専門家の不在という一点の隙を突き、マティアスの静かな攻勢がノルデンを侵食していくのだった。




