第4話 プリメロの夢
秋祭りが終わり、しばらくした頃。
ノルデンの街には、空前の「開店ラッシュ」が訪れようとしていた。
大通り沿いからは、空き店舗を改修する威勢のいい槌音が終日響き渡っている。
土地を耕し、自分の手で稼いだ金で商いを始め、明日の暮らしを切り開いていく。
僕が泥にまみれながらずっと夢見ていた「豊かさの循環」が、いま目に見える形となって街を動かし始めていたのだ。
「カイル様!」
バンッ! と執務室の扉が勢いよく弾け飛ぶように開いた。
「うわっ!?」
思わず肩を跳ねさせ、手元の書類から顔を上げる。
「……って、プリメロか。びっくりするじゃないか」
「ふふん! 驚くのはまだ早いですよ、カイル様! 実は今日は報告があって来たんです!」
「えっ?」
プリメロは満面の笑みを浮かべ、一枚の羊皮紙を誇らしげに掲げて見せた。
「あたしたち、お店を出しまーす! ディアナのクリーム焼き専門店です!」
「えっ、本当かい!?」
思わず椅子から腰を浮かせた。
プリメロの隣では、ディアナが照れくさそうに、けれどどこか誇らしげに小さく頭を下げている。
「……えへへ。実はね、私も作れるように練習したの」
「プリメロもかい?」
「うん!」
プリメロは嬉しそうに頷いた。
「最初は生地を焦がしちゃったり、クリームを入れすぎて溢れさせちゃったり……。ディアナには何度も笑われちゃいましたけど!」
「……だって、プリメロったら焼き台から目を離すんだもの」
「だってぇ! クリームの方も気になるんだもん!」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに弾けたような笑い声を上げた。
「でもね、カイル様」
プリメロは少しだけ声を落とした。
「この前の秋祭りで、お客さんたちがすっごく嬉しそうに食べてくれたでしょう?」
「……うん」
「小さな子がね、クリーム焼きを両手で持って『おいしい!』って笑ってくれたの」
その光景を思い出しているのだろう。プリメロの表情が、ふわりと柔らかくなる。
「……あの笑顔を見たら、もっと頑張りたくなっちゃって。ディアナ一人じゃ大変だし、あたしだって一緒に作れるようになりたいなって。だからお祭りが終わってから、ずっと練習してたんです!」
「……そうだったのか」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
誰かに命じられたからではない。目の前のお客さんに喜んでもらえたから、もっと上手になりたいと思った。商売の原点というのは、案外こういう純粋な場所にあるのかもしれない。
「それにね!」
今度はディアナが、少し声を弾ませた。
「お店の名前も、二人で考えているんです」
「へえ! もう決まったのかい?」
「それが、まだなんです〜!」
プリメロが広げた羊皮紙には、幾つもの店名候補が丁寧に書き連ねられていた。
『プティ・ボヌール』
『メゾン・ド・クレーム』
『ラ・フルール』
『シュクレ・ノルデン』
「……おしゃれな名前ばかりだね!」
「えへへ! 毎晩、二人であれこれ言い合ってるんです!」
「私は『プティ・ボヌール』がいいなって……」
ディアナが、少し恥ずかしそうに呟いた。
「小さな幸せ、っていう意味なんです。秋祭りでクリーム焼きを食べたお客さんが、みんな笑顔になってくれたでしょう? あんなふうに、食べた人が少しだけ幸せになれるお店にしたくて」
「……素敵じゃないか」
思わず頬が緩む。
「でしょ!? でもあたしは『メゾン・ド・クレーム』も捨てがたいと思うんですよね!」
「……ふふ。プリメロったら」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑い合った。
まだ看板もない、街角の小さなお店。けれどそこには、二人の夢がぎっしりと詰まっていた。
「それから、新しい焼き台も注文したんですよ!」
ディアナが差し出したもう一枚の羊皮紙には、焼き台の設計図が描かれていた。
作業台の高さ、燃料を使う部分の構造、一度に焼ける型の数。素人目にも、実際に店に立った時の工夫が凝らされているのがよく分かる。クロウの工房に何度も通って直してもらったのだという。
「……すごいね。ここまで準備が進んでいるなんて」
感心して吐息を漏らしたが、ふと、僕の中で一つの疑問が持ち上がった。
「……でも、資金はどうしたんだい?」
「……え?」
「店舗を借りて、設備を整えて、材料も仕入れるとなると、それなりのお金がかかるだろう? 特注の焼き台だって安くはないはずだ」
「ああ、それなら!」
プリメロは待ってましたとばかりに胸を張った。
「ふふん! あたしたちの夢を応援してくれる、すっごく親切な出資者様が見つかったんですよ!」
「……出資者?」
「はい! ベルニッツ商会っていうところです!」
聞き慣れない名前だった。
「お店を始めるための相談にも乗ってくれて、焼き台のお金だって分割で払えるようにしてくれるんです! 最初に全部払わなくてもいいから、あたしたちでもお店を始められるんですよ! お店が軌道に乗ったら、少しずつ払っていけばいいんですって!」
「……そう、なのか」
胸の奥に、小さな違和感が芽生えた。
二人はノルデンに来てまだ日が浅い。十分な蓄えも、商売の実績もないはずだ。そんな二人に、特注の設備まで分割払いで提供する商人がいるだろうか。
もちろん、手元に資金がない人間に事業の機会を与える融資の仕組み自体は、悪ではない。むしろ経済を回す大切なエンジンだ。
ただ——。
(……返済の条件は、どうなっているんだろう)
「カイル様!」
顔を上げると、プリメロが満面の笑みを浮かべていた。
「あたし、絶対に成功させてみせます! ディアナのクリーム焼きをノルデンの名物にして、いつか王都の人たちにも食べてもらえるくらい有名なお店にしてみせますから!」
プリメロの瞳は、未来への希望で輝いていた。隣に立つディアナも、力強く頷いている。
秋祭りで見た、お客さんたちの笑顔。
二人で夜遅くまで話し合って考えたら、おしゃれな店の名前。
新しい焼き台。
それらすべてが、二人の未来へと繋がっていた。
「……うん!」
僕は笑みを返した。
「楽しみにしているよ。開店したら、僕も真っ先に買いに行くからね!」
「本当ですか!?」
「もちろん!」
「やったあ! ディアナ、聞いた!?」
「……うん!」
嬉しそうに顔を見合わせる二人。その眩しいほどの笑顔を見ていると、僕の胸まで温かな高揚感で満たされていった。
新しいお店が増えて、街が賑わう。人々が自分の力で稼ぎ、夢を持ち、新しい仕事を生み出していく。それは僕が泥にまみれながら、ずっと望み続けてきた光景だった。
だからこそ。
僕は、あのとき気づけなかった。
いや——正確には、気づこうとしなかったんだ。
胸の奥に生まれた、あの小さな違和感。それを二人の眩しい笑顔と、街が豊かになっていく大きな喜びで押し流してしまった。
あの一瞬。聞くべきだったのだ。
『どんな契約をしたんだい?』
たった、それだけの一言を。




