第1話 ガルシアの胸中と、セドリックの関心
王都、王立財務院。
重厚な扉に閉ざされた会議室には、朝から張り詰めた空気が漂っていた。
「はぁ……またか」
王立財務院財務総監、ヴィクトル・フォン・ライゼンは、手元の報告書を静かに閉じた。
五十代後半。銀髪と整えられた髭を持つ、威厳ある男である。
王国の財政を統括する最高責任者であり、国庫の管理については一切の妥協を許さない。
「南西部の領地から、納税猶予を求める嘆願書が届いております」
答えたのは、内務省地方行政局長、オスカー・ベルンハルトだった。
四十代後半。眼鏡をかけた几帳面そうな男で、地方行政の実務に長く携わっている。
「昨年の凶作に加え、商人たちの撤退が相次いでおりまして。税収は前年比で三割減。領内の失業者も増加しております」
「……原因は凶作だけか?」
ヴィクトルが尋ねる。
「いいえ。主要街道の維持管理が滞り、輸送費が上昇しております。それによって商人が離れ、農産物の買い取り価格も下がっているようです」
「ふむ……」
ヴィクトルは顎髭を撫でた。
「追加の財政支援は、簡単には認められんな」
「……ヴィクトル殿」
「勘違いするな。南西部を見捨てると言っているのではない」
ヴィクトルは報告書を指で叩いた。
「だが、金を出すだけでは来年も同じ問題が起きる。国庫にも限りがあるのだ」
「おっしゃる通りです」
オスカーが頷いた。
「現地の行政体制そのものを見直す必要があるでしょう」
「……何か案があるのかね?」
「一つ、ございます」
オスカーは別の報告書を取り出した。
「以前、こちらでも議題に上がりました、ノルデンの件です」
その名前が出た瞬間。
会議室の一角で、内務尚書ガルシアの指がぴたりと止まった。
「……ノルデンか」
ヴィクトルが小さく頷く。
「覚えているとも。あの特別査察の報告書は、実に見事だった」
「はい。増額された税を完納し、搬出制限下でも領内の商取引を維持した。現在は制限も解除され、交易の回復が進んでおります」
「しかも、あの青年はまだ十六……いやもう十八歳だったかな?」
「はいをカイル・フォン・ヴァルハイト。ヴァルハイト侯爵家の次男です。先日の誕生日で十八になりました」
「……うむ」
ヴィクトルは満足そうに頷いた。
「以前も言ったが、あの青年をノルデンへ赴任させたガルシアの判断は、実に見事だった」
「…………恐縮です」
ガルシアは静かに頭を下げた。
その表情には、何の感情も浮かんでいない。
(……また、その話か)
あのときも、そうだった。
査察によってノルデンの不正を暴くつもりが、逆にカイルの功績を証明する結果となった。
そればかりか、自分がカイルを抜擢したことまで称賛されてしまったのだ。
(……忌々しい)
だが、その感情を表に出すわけにはいかない。
「……そこで、提案なのですが」
オスカーが口を開いた。
「カイル殿を、南西部の領地へ転任させてはいかがでしょうか」
「…………」
ガルシアの視線が、ゆっくりと上がった。
「ほう?」
ヴィクトルは腕を組んだ。
「ノルデンで成果を上げたから、次の領地も任せるというわけか」
「はい。南西部には、現在の状況を根本から立て直せる人物が必要です」
「しかし、カイルはノルデンの領主だろう?」
「ノルデンは前領主の急逝によって王家預かりとなった土地。彼も王命によって統治を任された身です。後任を置き、別の領地へ転任させることは制度上可能でしょう」
「……なるほど」
ヴィクトルは考え込んだ。
「確かに、一考の余地はあるな」
ガルシアは無言のまま、書類の端を押さえた。
(まずい)
胸の奥で、冷たいものが動いた。
カイルを、別の領地へ?
……冗談ではない。
ノルデンという辺境に留めておくからこそ、まだ動向を把握できる。
それが王国各地の財政再建に関わるようになれば、どうなる?
成果を重ね、支持を集め、やがて王都の中枢にまで呼び戻されるかもしれない。
(……それだけは避けねばならん)
「私は反対です」
ガルシアの声に、会議室が静まり返った。
「……反対?」
ヴィクトルが視線を向けた。
「理由を聞こう」
「確かにノルデンの改革は成果を上げています。しかし、まだその成果が定着したとは言えません」
「ですが、閣下」
オスカーが口を挟む。
「査察報告を見る限り、改善は明らかです」
「数字が改善したことと、領地が自立できるようになったことは別問題だ」
ガルシアは報告書の一節を指で示した。
「新しい産業、雇用制度、交易路の整備。いずれも始まって間もないものばかりだ。ここで改革の中心人物を異動させれば、せっかくの成果を失う恐れがある」
「……それは、確かに」
「ノルデンの再建を成功例として他領地に広めたいのであれば、なおさらだ。まずは改革を定着させ、再現可能な仕組みとして検証するべきだろう」
オスカーは考え込んだ。
「……しかし、南西部の問題も放置できません」
「無論だ」
ガルシアは頷いた。
「だからこそ、私のほうで別の人材を推薦しよう」
「……心当たりが?」
「財政管理に明るく、地方行政の経験もある者だ。まずは現地の歳入と支出を調べさせ、必要な対策を講じさせる」
ヴィクトルはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「……ガルシアの言うことにも一理ある」
「ヴィクトル殿」
「ノルデンの数字は確かに見事だ。だが、改革が一時的なものであれば、他領地への転任はかえって損失となる」
ヴィクトルは報告書を閉じた。
「カイルの転任案は、当面保留としよう」
「……承知しました」
オスカーが頭を下げた。
「ただし」
ヴィクトルは、ガルシアをまっすぐに見据えた。
「次のノルデンの財政報告は、私にも直接届けてもらいたい」
「……承知いたしました」
「数字は嘘をつかん。あの青年が本当に領地を立て直したのなら、いずれ王国全体の財政にも影響するだろう」
ガルシアは静かに頭を下げた。
その表情に、安堵の色はなかった。
(……危ういところだった)
だが。
(まさか、ここまで早く目をつけられるとはな……)
カイルを、遠ざければ遠ざけるほど、存在感を増していく。
それが、ガルシアには何よりも不気味だった。
◇
「おや、お疲れかな? ガルシア」
会議室を出たところで、背後から聞き慣れた声がした。
「……セドリックか。何の用だ」
振り返ると、セドリック・ランフォードが立っていた。
相変わらず、人を食ったような笑みを浮かべている。
「いやあ、驚いたよ。まさか君が、あそこまであの若者を擁護するなんてねえ」
「擁護ではない。そちらのほうが合理的だからな」
「ふうん。合理的、ねえ……」
セドリックは楽しそうに目を細めた。
以前の査察終了の会議でも、ガルシアは妙だった。
自ら抜擢した少年の成功を褒められたというのに、ひどく強く拳を握りしめていた。
そして今日。
今度は、その少年の転任を阻止した。
(……ふうん)
セドリックは、何も知らないふりをして話を続けた。
「しかし、カイル・フォン・ヴァルハイトだったかな? なかなか興味深い少年じゃないか」
「……何が言いたい?」
「確か、魔石生成? そんなスキルがあるんだっけ?」
「ああ。だが、最低級の魔石しか生成できない。鑑定書にもそう明記されている。貴族としては、あまりにも不遇な能力だ」
「へえ……。そこまで悲惨なら、俺の『剣聖』スキルを分けてやりたいくらいだよ。あはは!」
「ふん。軍からの招聘をことごとく断った男が、よく言う」
「そこまで言うか!?」
セドリックは大げさに肩を落とした。
「仕方ないだろう? だって、痛いのは嫌なんだよ。剣なんか振り回したら、怪我するかもしれないじゃないか」
「……お前という男は」
「それに、戦うよりこうして君と話しているほうが楽しいしねえ」
「私は楽しくないがな」
「ははっ! 相変わらず手厳しい!」
セドリックはひとしきり笑うと、ふと思い出したように顔を上げた。
「……ああ、そうだ。魔石といえば」
「……なんだ」
「君、以前、国王陛下から純魔石を賜っていたよね?」
ガルシアの表情が、わずかに強張った。
「……それがどうした」
「いやあ、あれは見事な品だった。最近は見せてくれないなと思ってね」
「……厳重に保管している」
「ふうん?」
セドリックは首を傾げた。
「前は、あんなに自慢していたのに?」
「熟考した結果だ。そもそも陛下から賜った品だ。軽々しく持ち歩くものではない」
「……なるほどねえ」
セドリックはにこりと笑った。
「いや、悪かったよ。つまらないことを聞いて」
「……仕事が残っている。失礼する」
「ああ、お疲れさま」
足早に去っていくガルシアを、セドリックは黙って見送った。そして。
「……ん?」
セドリックの口元に、楽しげな笑みが浮かんだ。
(前はあれほど嬉しそうに見せてくれたのにねえ……)
何気なく話題にしただけだった。
それなのに、あの反応。
査察終了の会議で見せた、あの強く握りしめた拳。
そして今日の、転任への反対。
(……何かあるのかな?)
セドリックは小さく笑った。
(ちょっと調べてみようか。面白そうだ)
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