番外編 日の当たる場所で、君と歩む未来
パン工房のふたりのお話。
早朝の柔らかな光が差し込むノルデンのパン工房。香ばしい小麦と焼き立てのパンの甘い香りが満ちる室内で、メリアは新しくできた売り場の棚に、こんがりと黄金色に焼き上がったパンを丁寧に並べていた。
「よしっ、今日もきれいに焼けてる!」
以前は工房の奥での包み作業が中心だったメリアも、今では売り場での接客を兼任している。
カイル様が主導するノルデンの復興とともに小麦の供給が安定し、売り場も格段に広くなった。店頭に並ぶパンの種類が増えるたび、買いにやってくる街の人々の笑顔も増えていく。
(昔は……夜の暗い店で、お酒の匂いにまみれて働いていたのに)
日の当たるこの場所で働けるようになった喜び。
「自分たちの作ったものが、ちゃんと誰かの元へ届いて、笑顔を作っている」
そう実感できる毎日は、かつてのメリアには想像もつかないほど眩しく、愛おしいものだった。
そんなメリアの日常の中に、いつの間にか妙に気になる存在ができていた。
「……あ」
重い小麦袋を両肩に二つずつ、軽々と担ぎ上げて作業場へ運んでいく大きな背中。
青年の名は、ニルス。
短く切り揃えた髪に、キリッとした太めの眉。背が高く、肩幅も胸板も並外れて広い、かなりのガタイの良さだ。見た目だけなら、森の魔獣を素手で殴り倒してもおかしくないほどの圧倒的な存在感がある。
けれど彼は、極端に口数が少なく、人付き合いも不器用だった。
工房でも、交わす言葉といえば、
「……おはよう」
「お、おはようございます、ニルスさん」
それくらいのものだった。
だが、昔バーで働き、毎日たくさんの客の顔色や空気の変化を見続けてきたメリアには、人の表情や異変に敏感に気づく癖があった。
だからこそ——ある夏の暑い日、作業中のニルスの小さな変化を見逃さなかった。
(……あれ?)
いつも通り無口に黙々と手を動かしているニルス。けれど尋常ではない量の汗が額から流れており、足取りがほんの少しつっかえていた。
(暑さのせい? ……ううん、ちがう)
メリアはその顔を知っていた。無理をして酒を飲み続けた客や、体調を崩す直前の人間が見せていた特有の顔。
「ニルスさん、少し休みましょう!」
「……でも、まだ……運ばないと」
「いいから!」
メリアは作業場に向かって思い切り声を張り上げた。
「すみません! ニルスさんを少し休ませます!」
半ば強引にニルスを日陰へと連れ出し、冷えた水瓶から注いだ水を差し出す。喉を鳴らして水を飲んだニルスは、荒かった息を整えると、大きな体を小さく丸めるようにして申し訳なさそうに呟いた。
「……迷惑をかけた」
「迷惑じゃありません! 倒れてからじゃ遅いんですから。自分の体を一番に大事にしてください」
この日を境に、ニルスは作業の合間、そっとメリアのことを見つめるようになった。
◇
それからしばらくして。二人で仕事終わりに夕暮れの街を歩いていた時のこと。
メリアは以前から気になっていた疑問を口にした。
「ニルスさんって……冒険者には、ならなかったんですか?」
その問いに、ニルスはぴたりと足を止め、重い沈黙のあとポツリと語り始めた。
「……怖いんだ。魔獣を見ると……震えてしまって。身体が、動かなくなる」
その体格ゆえに、周囲からは昔から散々言われてきたのだという。
『その体なら冒険者になればいいのに』『情けない』『もったいない』と。
人付き合いが苦手で、不器用で、戦うことができない。だから仕事も長続きせず、たらい回しにされてここへ行き着いたのだと。
うつむくニルスの横顔を見て、メリアの胸がギューッと締め付けられた。
(ニルスさん……)
メリアは、その姿に昔の自分を重ね合わせていた。
バーで働いていた過去を恥じ、「私なんてこんな経歴しかない」と自分の価値を見失っていた頃。カイル様が言ってくれたのだ。
『夜の店で培った接客も、人の顔色を察する気配りも、君が身につけた立派な技術だよ』
あの言葉に、どれほど救われたか分からない。
だから今度は、メリアがニルスにその言葉を返す番だった。
「ニルスさん」
メリアはまっすぐにニルスを見上げた。
「冒険者になれなくたって、いいじゃないですか! ニルスさんはこの工房で、誰も持てないような重い小麦袋を何袋も運んでくれてます。黙々と真面目に仕事をして、誰かが困っていたら何も言わずに手伝ってくれてます」
「メリアさん……」
「身体が大きいからって、戦わなきゃいけないなんて決まりはありません! ここでみんなのためにおいしいパンを作る手伝いをしているニルスさんは、すごくカッコいいです!」
ニルスは呆然と目を見張り、やがて太い眉を少し下げて、泣きそうな、でも嬉しそうな温かい表情を浮かべた。
「……ありがとう」
◇
一緒に帰るのが当たり前になり、休日にふたりで街へ出かけるようになった。
昼間の光が降り注ぐ街並みを、ふたり並んで歩く。
明るい日差しの中で誰かと買い物を楽しめることが、メリアには夢のように嬉しかった。
「あの……似合いますか……? ニルスさん……」
服屋の店頭で、新しい上着を羽織ったメリアが少し照れくさそうに振り返る。
ニルスは少し目を見開いたあと、かっと顔を赤くして、力強くコクコクとうなずいた。
「……すごく、似合ってる」
「ふふ、ありがとうございます!」
派手なおしゃべりや甘い言葉はなくても、ニルスの静かな優しさが、メリアの心を温かく満たしていた。
◇
そして、ある日の帰り道。
夕陽が街を赤く染める坂道で、ニルスが突然足を止めた。
「……メリアさん」
「はい?」
振り返ったメリアの前で、ニルスは大きな体をガチガチにこわばらせ、ポケットから小さな箱を取り出した。
夕日を浴びて箱の中でキラリと光っていたのは、ささやかだが美しい銀の指輪だった。
ニルスの顔は耳の先まで真っ赤で、大きな手を固く握りしめながらプルプルと震えている。
「俺は……うまく喋れないし。人付き合いも下手だ。たぶん、これからも上手くは喋れない」
「ニルスさん……」
「でも」
ニルスは大きな手で指輪の箱を握りしめ、まっすぐにメリアを見つめた。
「この先も……ずっと、一緒に、いたい……。俺の、お嫁さんになってほしい」
口下手な彼が一生懸命に絞り出した言葉。
あまりの一直線すぎる言葉に、メリアは目を丸くして完全に固まった。
「もう、ニルスさん」
数秒の絶句のあと、ふっと肩の力を抜いたメリアが、困ったような、でも溢れんばかりの愛おしさを込めて微笑んだ。
「あ……っ、すまない。迷惑……だったか?」
メリアの反応に青ざめたニルスは、大きな体を縮こまらせておろおろと視線を泳がせる。
「違うの。大胆なんだなあって。……付き合うのを、飛び越えているんだもの」
「……っ。そうだった、俺は……順番を、間違えて……っ」
ハッと気づいて顔をさらに真っ赤にし、大真面目に頭を抱えそうになるニルス。
そんな彼の大きな手を、メリアは自分の小さな両手でそっと包み込んだ。
「いいですよ、ニルスさん」
「え、……?」
おそるおそる顔を上げたニルスに、メリアは夕陽の中で一番の笑顔を向けた。
「私も、ニルスさんと生きていきたい」
「メリアさん……っ」
順番なんてどうでもよくなるくらい、お互いの気持ちがまっすぐに重なった瞬間。
夕暮れの坂道で、二人は顔を真っ赤にしながら、固く手を握り合った。
◇
それから、ふたりは結婚し、パン工房の寮で慎ましく暮らしていた。
そして旧市街の修繕が進み——最初に再生された住宅へ入る家族の一組として、ふたりが選ばれた。
古い岩の壁には、昔ここで暮らしていた誰かがつけた小さな傷が残っている。
けれど屋根は頑丈に葺き直され、扉も窓も新しい。
過去を消して新品になったわけじゃない。残っていたものに手を加え、もう一度人が暮らせるように直された場所。
それはまるで、夜の店の過去を持ったままのメリアと、臆病な性格のまま歩み出したニルス、ふたりの生き様そのものだった。
カギを受け取り、ふたりで足を踏み入れた新しい家。
誰もいないまっさらな空間に、メリアはそっと小さく呟いた。
「……ただいま」
ずっと前に家族を失い、帰る場所をなくしていたメリアの口からこぼれた言葉。
すると隣で、ニルスが静かに、でも温かく微笑んだ。
「……ただいま、メリアさん」
「ふふ。ニルスさんも帰ってきたんですか?」
「……ここが、俺たちの家だから」
「……はい」
涙をこらえて微笑むメリアの手を、ニルスの大きな手がやさしく包み込む。
その日の夜。旧市街の小高くなった丘から街を見渡していたカイルとリーザは、修繕された住宅の窓に、ひとつ、またひとつと温かいあかりが灯っていく光景を静かに見つめていた。
『カイル様、見てください。あんなにたくさんの灯りが……』
『ああ……あの辺りの家にはメリアとニルスが入ったんだよ』
あの窓の向こうで、メリアとニルスが新居の灯りをともし、笑い合っている。
かつて家族を失い、闇の中にいた少女が、自分の手で掴み取った新しい家族と、新しい「家」。
灯されたひとつの窓のあかりは、領地が再生した証であり、名もなき市井の人々が掴み取った確かな幸せの形だった。




